「囲碁におけるうろ覚え」について考察していきます。

囲碁におけるうろ覚え

うろ覚えとは?

うろ覚えとは「疎覚え」や「空覚え」という漢字が当てはまります。

語源は「空洞」を指す「空」「虚」「洞」に由来しているそうです。

また「烏鷺覚え」と書くこともあるようで、「うろ」の当て字になっています。

「烏鷺」とはカラスとサギのことです。

「烏(カラス)」は黒を示し、「鷺(サギ)」は白を示しています。

故に「囲碁」の別称の1つになっています。

私は以前から「うろ覚え」は囲碁にこそふさわしい言葉であると考えていました。

「定石覚えて二子弱くなり」という格言は、まさにうろ覚えの典型的な例ではないでしょうか。

うろ覚えとは

・ぼんやりとしか覚えていない。

・知識が曖昧であったり、欠落している。

・いくつかの情報を持っているだけで、それを知っていると思い込んでいる。

以上のような状態のことを指します。

皆さんは今まで学んだ知識をちゃんと「覚えて」いますか?

囲碁で一番よくないのは「中途半端」に打つことです。

「自分の考え」で自由に打つなら、それは結構なことです。

しかし「本に書かれていること」や「上手い人から聞いたこと」など自分の知識として頭に落とし込むことができていなければ、何の意味もありません。

結局のところ、他人のふんどしで相撲を取ってもよい結果は得られないのです。

知識を得るときは、その根拠となっている「背景」も一緒に学ばなくてはなりません。

知識の全体像

最近流行の「即、三々入り」定石を例にして考えてみましょう。

なぜ序盤早々、すぐに三々に入ると思いますか?

逆に今まではどうして誰もすぐには打たなかったのでしょうか?

級位者の方には難しい問題かもしれませんね。

要するに「地」が欲しいから三々に入るのではないということです。

地を稼ぐことが理由であれば、とっくの昔から打たれています。

地ではなく星の弱点であり、「星の根拠を奪うこと」が三々入りの真の目的なのです。

これまでは「実利」を取ると「厚み」と換わるという固定観念がありました。

それ故に三々入りは実利を得る代わりに厚みを与えてしまうため、打つタイミングが難しいものとされてきました。

ところが序盤早々から三々入りすると、実は厚みが大したことなく「壁攻めできるのでは?」という価値観に変わってきたのです。

きっかけは「Alpha Go」の登場です。

人間では既存の価値観に囚われて、まったく新しいことを思いつくまでに時間がかかります。

AIが自ら「壁攻めできる」と言うわけありませんが、棋譜を見る限りそう解釈しなくては辻褄が合いません。

このように「即、三々入り」の背景には「厚みを壁攻めする」という狙いが秘められているのです。

「そういえば、プロの先生が早い段階で三々に入っていたな」なんて認識ではうろ覚えもいいところでしょう。

知識を得るときは背景を知り、全体像を掴んだ上で理解を深めていくことが大切になります。

囲碁は棋力が上がるにつれて盤上全体のことを把握する能力が向上してきます。

逆に言えば、級位者は盤上全体を見渡しながら打つことなどできません。

それでは、級位者を始めとする視野の狭い方はどうやって勉強していけば良いのでしょうか?

答えは簡単です。

部分的に同じ形(定石など)を繰り返し実戦で使えばよいのです。

級位者に限らず、勝てない人は飽きっぽいことが多いです。

1つの戦法を試すのに数局しか実践しません。

「中国流をやってみたけど、どうも勝てないようだから小林流にしよう」

「小林流をやってみたけど、やっぱり勝てないから小目のシマリにしよう」

こんな感じでろくに検証もしないまま、次から次へと戦術や戦法を変えていってしまうのです。

これではいつまで経っても「全体像」を掴むことができません。

囲碁は毎局ごとに違った展開になります。

「同じことを繰り返す」ことで、部分的な形が毎回違う局面にどう影響をもたらすのか知ることができます。

1つの戦法を検証するには「100局」程度は繰り返し試さなくてはならないでしょう。

1つの定石であれば、少なくとも「20局」くらいの検証結果が欲しいところです。

普通なら「全体を把握してから部分的なことを選択する」ことになります。

それを「部分的なことを徹底的に突き詰めて全体像を知る」のですから並大抵ではありません。

「即、三々入り」定石を試すのなら、これから1年はずっと打ち続けるくらいの覚悟が必要でしょう。

流行り廃りによって打つ手を変えているのは所詮「うろ覚え」でしかなく、真の理解を得るには程遠いと言わざるを得ません。

もちろん全体像を把握できている、もしくは最大限把握する努力をしている方はその限りではありません。

作品づくり

布石戦略、定石だけではなく「手筋」「詰碁」に至るまで、反復練習することはうろ覚えにならないために大事なことです。

人は次から次へと新しい知識や情報を欲しがります。

科学全盛の現代では「最新情報」こそ最も価値のあるものだと疑わない人はいません。

しかしながら「最新」を語る上で、今まで積み上げてきた研鑽を忘れてはいけません。

はるか昔から営々と積み上げてきた知識と経験を元にして「最新の研究」が行われているのです。

AIが台頭してきた現在の囲碁界でもそのことに何ら変わりはありません。

なぜならAIが示す手を「解釈」するのは人間であり、「扱う」のも人間だからです。

囲碁AIの示す手はいわば「写真」のようなものです。

囲碁の深淵、真理を映し出しているのかもしれません。

まだ画像の荒い感じが否めませんが、それでも人間よりはるかに写実的に表現できています。

人間同士の対局は「絵画」に相当するのかもしれません。

19世紀に写真が世に出てきてから、人間の描く絵画は廃れてしまいましたか?

決してそんなことはありません。

人間には独自の価値観があり、写真を利用しても物事を描くことをやめたりしません。

囲碁の対局にも同じことが言えるでしょう。

確かに「最善の一手」の追及のためにAIで局面を解析することもあるかもしれません。

しかし盤上にあるのは相手と自分自身の考えであり、独自の表現なのです。

カメラを持っているからといって、日々描くことに必死な人を馬鹿にすることがありますか?

毎日「手筋」や「詰碁」に「棋譜並べ」をして「対局」に臨む方を馬鹿にする人は誰一人としていません。

そのような日々の研鑽によって生み出された盤上における自己表現は素晴らしいものです。

技術的にはAIに劣っているとしても、観ている人の心を動かすことができるはずです。

だからこそプロ棋士という職業はこれからも必要であり続けることでしょう。

あなたの「うろ覚え」碁では、観ている人に感動を与えることができないかもしれません。

それは決してあなたの棋力が低いからではありません。

囲碁に対して理解を深めようとする姿勢はちゃんと盤上の着手にも表れるのです。

そのことをよく理解していれば、中途半端な知識で打つことなどできなくなります。

盤上のいろんな可能性を模索して、新しいことを次々とチャレンジしていくのは大いに結構です。

そのとき大事なことは「自分なりの考え」を持って打っているのかどうかでしょう。

「自分なりの考え」を盤上に表現するには、やはり普段から知識を蓄えて自分自身の解釈によって頭に落とし込んでいくことです。

そうやって積み上げてきた「本物の知識」に基づいて打たれる一手一手は、必ず観ている人の心を動かすことができるでしょう。

あなたの碁を「観ている」のはあなた自身でもあります。

対局相手もそうです。2人も納得して満足させられる碁が打てるのなら十分でしょう。

あなたの日々の研鑽によって生み出される「作品」がきっと素晴らしいものであると信じています。

「私なんてまだまだ」と卑下することなく、またうろ覚えの知識に溺れることのないようにしっかりと囲碁に対する理解を深めていきましょう!