「囲碁におけるマナーの心得とは何か?」について考察していきます。

囲碁におけるマナーの心得

ケースバイケース

あなたは対局のとき何か嫌な思いをしたことはありますか?

また他の誰かを不快な気持ちにさせたことはありませんか?

人間が社会生活を営む以上、嫌な思いは少なからず経験するものでしょう。

それは「仕方ない」と割り切れるものだったり、到底許せないことだったりします。

人それぞれ成長や気づきに差がありますから、たとえ同世代であっても分かり合えないことはあります。

もちろん性別の違い、知識や経験の差、道徳やモラルの個人差など様々な条件が異なっていて当たり前です。

よく「常識」という言葉が使われますが、この言葉はアテにならない自己満足でしかありません。

例えば「人に会ったら挨拶をするのが常識だ」という主張を取り上げてみましょう。

子どもを持つ親は知り合いに会ったとき、子どもに挨拶をさせようとします。

ところが普段は「知らない人には付いて行ったらダメ」と教育しています。

一時期「マンション内で挨拶するかしないか」といったニュースが話題になりました。

要約すると「子どもにはマンション内でも知らない人に挨拶させない」という親の教育方針がトラブルの原因です。

良かれと思って挨拶した側からすれば、「なんで無視するんだ!?」と憤慨するのも無理はありません。

結局、そのマンションでは「挨拶しない」という決まりになったそうです。

この話を聞いて、あなたはどちらの主張が正しいと思いますか?

私は「親の主張」が正しいと考えています。

なぜなら同じマンション内のコミュニティで関わり合いがないのであれば、無理に挨拶することもないからです。

そもそも挨拶とは人間関係や物事を円滑にするために行うものであり、その範囲はおのずと限定されます。

人によっては家族と職場だけで事足りる方もいるでしょう。

また地域との関わりが深い人はそこの住民、あるいはお店の人と挨拶をかわす方もいます。

ここで注意しなくてはならないのは、相手との「前提条件」が違うかもしれないということです。

先ほどのマンション内の話では「居住区が一緒なんだから、挨拶くらいすればいいのに」との主張も一理あります。

では、その範囲はどこまで適用されますか?

マンションを一歩でも出たらどうか、町内を一歩でも出たらどうか?

少し有名人ならこちらが知らなくても、相手から声をかけられることもあるかもしれません。

こういうことは下手に線引きしないほうがよいというものでしょう。

だからこそ「常識」という言葉は個人を尊重する今の時代にはふさわしくありません。

常識というのは囲碁でいうところの「定石」であり、悪く言えば「思考停止」に他なりません。

「ケースバイケース」「臨機応変」という言葉こそ、これからの時代に必要な考え方です。

「挨拶するのが大事だ」という常識(定石)を何でもかんでも当てはめようとしてはいけません。

その場の状況、相手の立場を考えながら対処すれば、おのずと最適解が見えてくるはずです。

マンションの一件では「何で挨拶しないんだ!?」と憤るのではなく、子ども相手にニコニコしていれば済むことでしょう。

ルールやモラルには一定の線引きが必要ですが、マナーははもう少し自由で高度なものです。

「マナーが悪い」と眉をひそめる前に、相手の立場になって物事を考える癖を付けることが大切になります。

最適解を導き出す

囲碁は非常に「自由な」ゲームです。

またそれ故に「高度な」ゲームでもあります。

そのからくりは至って簡単です。

すなわち「ルールが少ない」ことに他なりません。

5つの基本ルール以外、あとは自由です。

細かく言うと「ハガシ(打った石を動かす)」「時間切れ負け(大会による)」などありますが、盤上の技術におけるルールは5つしかありません。

囲碁のルールにおける5つの基本とは?

※詳しくはこちらをご覧ください。

ほとんど制約のない中で「何をやってもよい」ことが囲碁の「自由で」「高度な」ゲーム性につながっています。

これは人間社会において今までも、そしてこれからも決して廃れることのない考え方です。

世の中で何か不都合なことが起きると、必ず「ルール」を作って良し悪しの線引きを付けようとします。

もしくは「モラル」を厳格化して、その通りにしなくてはならない風潮を作り出します。

飲酒運転の厳罰化、または未成年者の飲酒喫煙が該当するでしょう。

確かにルールやモラルを次々と作っていけば、集団の行動を矯正することができます。

しかしやることを決められれば、決められるほど「バカ」が世の中に溢れ返ります。

なぜ「挨拶をするのか?」

また「未成年者が飲酒喫煙をしてはならないのか?」

こういう疑問を持たずに「ルールだからダメ」「モラルに反している」というのは、「私は考える頭が足りません」と自己主張しているようなものです。

ルールを守れないバカよりも、ルールしか守れないバカのほうがよほど頭が悪いと思います。

その点「マナーがよい」という方にバカは1人もいません。

マナーのよい方は大抵「品格」があり、上品な人は周囲から一目置かれます。

マナーをよくする鉄則は「人のマナーを指摘しない」ことに尽きます。

マナーにおける有名な話として「女王のフィンガーボウル」の逸話があります。

フィンガーボウルとは「手を使って食べる料理」に添えられるもので、汚れた指を洗うのを旨としています。

しかしフィンガーボウルの使い方を知らない招待客が飲料水だと思い、中の水を飲んでしまいました。

女王はとっさに自らもフィンガーボウルを口にして、あたかもそれが飲料水であるかのように振る舞います。

文化の違いによる相手のマナー違反を察し、間違いを指摘せず、自ら口にすることでその場の「マナー」を作り出しました。

今風に言えば「空気が読める」ということでしょうね。

空気の読めない人を疎外するのではなく、相手に合わせて臨機応変に対応する「知性」は尊敬に値します。

「知性」を持ち合わせているからこそ、「品格」を兼ね備えることができるのです。

仮に相手の間違いを指摘するにしても「言い方」次第で、伝わり方は大きく変わります。

「私は正しいことを言っている」という理屈はマナーの世界では通用しません。

正しいことは小学生でも言えます。

いかに「相手を正すか」ではなく、どうやったら「その場の空気が和むか」を考え実践することが肝心なのです。

決まりきった「正解」を探すのではなく、その場における「最適解」を導き出します。

あなたはそば屋でスプーンとフォークを両手に音を立てずに食べている外国人を見たらどうしますか?

「これが日本の文化だ!」と言わんばかりにズルズル音をたてながら、これ見よがしにそばを食べますか?

もしその場における「最適解」があるのだとすれば、その解は1つとは限らないでしょう。

「そばは日本のソウルフードだ!」と言って音を立てながら食べるのを見て、必ずしも相手が不快な思いをするわけではありません。

むしろ「I was wrong!(私が間違っていた!)」と言ってスプーンとフォークを箸に持ち替えてズルズルと音を立てながら食べてくれるかもしれません。

先ほどの女王の話も、場合によっては「間違いを指摘されなかった」ことで「恥をかいた」と感じることもあるでしょう。

まさしくマナーとは「ケースバイケース」「臨機応変」という言葉が似つかわしいものです。

ここら辺の機微を感じ取れるかどうかは、囲碁上達においても重要な心の在り方となります。

伝え方によるマナー力

対局におけるマナーは「打つ場所」によって異なります。

「碁会所」で一番懸念されるのは「煙草」です。

世の中「分煙」が進み、それどころか「禁煙」であるお店が増えてきています。

碁会所も世間の風潮には当然ながら逆らえません。

しかし困ったことに囲碁人口の一番多い年配の方ほど、煙草を吸っている傾向があります。

もし禁煙にでもしたら、たちまちお客さんが離れていってしまうでしょう。

かといって女性や若い世代を歓迎しなければ、いずれ廃れていくのは目に見えています。

こればかりは「分煙」という妥協点で決着を付けるしかありません。

相手のことを思いやるのであれば、「喫煙」も「禁煙」もナンセンスでしょう。

碁会所だけではなく、「囲碁教室」にも無論マナーの問題は存在します。

一番多いのは「時間の使い方」です。

基本的に対局時計は使いませんから、お互いの「呼吸」で打ち進めていきます。

すると年中打ちまくっている碁会所の方とは違い、教室の生徒さんの中には「打つのが遅い」方がいます。

もちろん「打つのが早すぎる」のは考えものですが、ある程度相手に呼吸を合わせなくては楽しく打つことができません。

これは級位者に限らず、有段者でも同じことが言えます。

私は「早打ち」なので、ポンポンと打ったほうが調子よく打ち進めていくことができます。

ところが長考する友人と打つのはペースが合わずに骨が折れます。

対局時計を使うならまだしも、使わずに1,2時間考えられたら堪ったものではありません。

言うまでもなく、これは私自身の「主観」によるものです。

周りからしたら「もっと考えて打とうよ」と思われているかもしれませんし、私も早打ちの方を見てそう思います。

時間制限というルールを設けるのは、「時間切れ負け」というまた厄介な問題を引き起こすので得策ではありません。

時間はルールで解決するものではなく、あくまでも「マナー」として一局ごとに臨機応変に対応していくべきでしょう。

マナーの問題はリアルの対局のみならず、「ネット碁」にも数多く見られます。

むしろ顔が見えない相手に対するリスペクトが低い分、相手を思いやる気持ちがなくなっています。

一番問題視されるのは「終局要請に応じない」といった事案です。

私も幾度となく経験していますが、要は「負け惜しみ」というわけです。

ネット碁は大抵「持ち時間+秒読み」ですから、いくら粘っても「時間切れ負け」になることはありません。

それにもかかわらず、「無駄手」を永遠と打ち続けて終局させない嫌がらせを2度もされたことがあります。

1度目は仕方なく勝ち碁を投了しましたが、2度目は「秘策」を持って見事打ち破りました。

その秘策とは「すべての石を眼2つにする」という手法です。

相手がこちらの地に打ってきたら絶対に「取らない」ように「着手禁止点」を作ります。

相手が自ら地を埋めてきたら、こちらも入って「取られ」に行きます。

盤上がすべて「着手禁止点」で埋め尽くされれば、もう打つ場所がありません。

最終的に相手が自分でダメを詰めて「1眼」にしても、決してアタリを取らなければ「着手禁止点」のままになります。

結局はこちらの終局要請に「応じるか、否か」というところまで持っていき、とうとう相手を諦めさせました。

何とも「美しくない」話であり、相手のマナー違反に対して少々ムキになってしまった感が否めません。

今にして思えば、お互いに時間の無駄なのでさっさと投了しておけばよかったことです。

大会ならまだしも、目の前の一勝を拾うのに無駄な時間を費やしても仕方ありません。

ネット碁は「一期一会」であり、いろんな人がいることを承知して利用すべきでしょう。

中には「聖人」のような方がいるかもしれませんし、「ずるがしこい」「卑怯な」方もいるかもしれません。

しかし人の成長など、時間がかかる上に個人差があって当たり前です。

昔の私も今にしてみれば「マナーが悪い」と言わざるを得ません。

だからこそ、マナーが悪い人のことを「絶対ダメ」「許せない」とは思いません。

盤上における技術の向上に合わせて、ゆっくりと成長していけばよいでしょう。

1つだけ言えるのはいくら「正義」を振りかざしたところで、よい風向きにはならないということです。

あなたが「知性」を持ち合わせ「品格」を兼ね備えているのなら、必ずその場に合った「最適解」を導き出すことができます。

「マナー違反だ」「非常識だ」と主張するのは一向に構いません。

ただし相手を非難するようなやり方では、何1つ円滑に物事を進められないでしょう。

あなたが我慢する必要はありませんし、言いたいことは相手にちゃんと伝えるべきです。

「伝え方」をどうするか、それによってあなたの「マナー力」が試されます。

相手にマナーを求めるだけではなく、あなた自身もよく考えながらその場における最適解を見つけ出せるように工夫しましょう。

気持ちよい対局の場はあなたと相手の2人で作り出すものなのです。