
「なぜ囲碁は流行らないのか?」について考察していきます。
求められているのは?
趣味や嗜好が多様化している現代において、人々はどのような「ニーズ(需要)」を抱えているのでしょうか?
今の時代に求められているニーズとは「納得」です。
インターネットの普及により、いつでもどこでも簡単に情報を入手できるようになりました。
そして同時に情報の「真偽」を確かめようとする行為もまた盛んになっています。
いわゆる「ソース(情報源)」の確認です。
囲碁であれば、盤上において「プロ棋士(名人)の言うこと」なら誰しも納得するのではないでしょうか。
今の時代はAIによって導き出された答えも「正解」と言って差し支えないような状況になっています。
ちなみに囲碁は化学や物理で証明できるような正解を導き出すことはできません。
※興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。
そのため一番「実績のある」人の発言が信用されるのは自明の理です。
ただし「難しい」言葉をいくら並べられても、理解できないことには納得するのは難しいでしょう。
なるべく「わかりやすく」伝えることが相手に納得してもらうための近道になります。
この「わかりやすく」という言葉の中には「手短に」「簡潔に」という枕詞が含まれています。
長々と小難しい話をされても、なかなか頭に入ってきません。
人間は「聞く」ことは自然にできても、しっかりと「聴く」ことは簡単にはできないのです。
ちなみに「聴く」という字は「耳」「+」「目」「心」の4つから構成されています。
すなわち聴くとは、相手の話に「耳」を傾けて「+(それに加えて)」「目」を見て「心」でもって聞くものなのです。
そのためには「納得」できる情報を「手短に」「わかりやすく」相手に伝えることが重要になります。
さて、囲碁というゲームを他の分野と比較したときにある疑問が湧いてきます。
囲碁において「納得できる情報」を簡潔に分かりやすく伝えることがはたしてできるのでしょうか?
答えは「ノー」です。
もちろん、伝える側の能力によることも否定しません。
囲碁は対局を始めてから終局するまでに1時間も要するとても時間のかかるゲームです。
囲碁は勝負の世界ですから、「結果」こそ「誰もが納得できる」情報になります。
とはいえ、その結果を出すまでの過程が非常に「長くて」「わかりづらい」のが囲碁の最大の欠点といっても過言ではありません。
囲碁を知らない人、または級位者の方にとって
「プロの手合いはどちらが勝っているのかよくわからない」
「解説を聞いてもわかりづらいし、とにかく長い」
というのが本音ではないでしょうか。
よく「中国流」や「小林流」といった布石の解説をアマチュアの方は好む傾向にあります。
なぜなら「真似しやすい」「手数が短くてわかりやすい」といったメリットがあるからです。
プロ棋士の先生が序盤の布石で「ここはこう打つところですよ」と解説すれば、十分に説得力のある情報になります。
(AIの台頭によりプロ棋士の権威は少し弱くなりましたが、決して失墜することはありません。
そもそも囲碁に「正解」を求めること自体がナンセンスな話ですから、実力ある人の意見は「一理ある」と捉えるのが正しい態度です。)
しかし広く囲碁を普及する上では、布石の打ち方に「正解がない」ことはむしろマイナスに働きます。
布石における「良し悪し」に関しても、終局して「勝ち負け」という形で結果が出るまで長すぎます。
大抵の場合は布石での良し悪しに関係なく、中終盤の石の競り合いで勝ち負けが決まってしまうでしょう。
これでは「初めにどう打ったらよいのか?」という疑問に対して、明確な答えを持ち合わせることなどできません。
「正解がわからない」ばかりではなく、「結果が出るまでの過程」が長くてわかりづらいのですからどうしようもありません。
囲碁は「自分自身の考え」によって「道なき道を探求していく」ことにこそ本当の価値があります。
しかしその境地に至る前に「結果」が出るまで「長くて」「わかりづらい」ゲームを好んでやろうという方は稀かもしれません。
実績が求められる
囲碁を広く普及させようとして「囲碁は素晴らしい」と言ってもなかなか「聴いて」もらえません。
しかし何も囲碁のゲーム性を世の中に向けて必死にアピールする必要はありません。
今の時代「ニュース」になることができれば、普及に大いに貢献することになります。
特にニュースになりやすいのは「若い子の活躍」と「世界における日本人の活躍」です。
お隣の将棋界では「藤井聡太」さんが若干14歳にしてプロ入りしました。
激戦の三段リーグを勝ち上がって四段になるのは決して簡単な道のりではありません。
14歳でプロ入りしたのは史上5人目となる快挙です。
当時から2年経った今では七段に昇段し、29連勝を達成するなど将棋界を席巻しています。
一方で囲碁界における「ニュース」となった出来事とはいったい何でしょうか?
皆さんご存知の方も多いことでしょう。
若干9歳にして入段を認められた「仲邑菫」さんのニュースが一般でも話題になりました。
藤井聡太七段の入段から2年を経て、囲碁界にも「期待の新星」が現れたと囲碁ファンが賑わう明るいニュースです。
しかし残念ながら「世間が認める」ようなニュースではありません。
「英才特別採用推薦棋士」という枠組みの第一号として入段したからです。
日本棋院のホームページにはこう記載されています。
これまでの内外における実績と将来性、並びに試験対局において英才特別採用推薦棋士にふさわしい資質と棋力が認められた。
要するに「すごく才能があるから正規ルートじゃないけどプロ棋士にしますよ」というわけです。
しかも上記の制度における「第一号」ですから、はっきり言って何の実績もありません。
私個人としてはこのような新しい試みに大いに賛同しています。
なぜなら今の囲碁界では才能の開花は早ければ早いほど良いと考えられているからです。
韓国・中国勢に日本が勝てなくなってから、かれこれ20年近く経ちました。
結局のところ、向こうでは10代の頃から一流棋士と互角に渡り合わないとトップに立てないのが現状です。
17,8歳になる頃にはすでに世界で活躍していても不思議ではない年齢なのです。
それに比べて日本では若手が活躍するのがとても遅い印象を受けます。
それどころかリーグ戦に4,50代の棋士が未だに参加している有様です。
古参の活躍は嬉しい限りですが、実は有望な若手がいないことを示唆しています。
当然ながら韓国・中国では4,50代になった棋士が活躍できる席は空いていません。
世界ランキングでも軒並み10代、20代の棋士が名を連ねています。
そのような事情を囲碁界の人間はよく知っているので、「日本にも有望な若手を」という想いは囲碁ファンの渇望でもあります。
有望な若手を育てられない背景には「内弟子」を取らなくなったことも挙げられるでしょう。
かつての「木谷道場」のように数多の棋士を輩出し、一門で当時の七大タイトルを独占してしまうような一大門下はもはや存在しません。
それどころか「師匠がいない」若手のプロ棋士もいるくらいです。
こうなってくると日本棋院が若手を育てる制度を作るしかありません。
そういう経緯の元「英才特別採用推薦棋士」という制度が作られたことは容易に想像がつきます。
ただし何も知らない世間一般の方々からすれば、一種の「裏口入学」と捉えられても何らおかしくありません。
仲邑菫さんの実力は当ブログでも紹介しています。
※興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。
仲邑菫さんの実力は試験対局を務めた張栩九段を始めとして、多くのプロ棋士の先生方も認めています。
しかしそれだけでは身内(囲碁界)は納得しても世間の理解を得ることはできません。
やはりプロの公式戦で勝ち上がってこそ、誰もが「納得」することができるのではないでしょうか。
漫画から小説へ
将棋界では藤井聡太七段の活躍によって新たな「将棋漫画」が各雑誌に連載されるようになりました。
「また将棋漫画か」と言わずにはいられないくらい、藤井七段が登場してから今まで数多くの「将棋を題材にした漫画」や「将棋の回」が描かれています。
囲碁を題材とした漫画で誰もが知っているのは「ヒカルの碁」です。
人気少年誌「ジャンプ」で連載されたヒカルの碁の影響を受けて、当時「囲碁をやってみよう!」という子どもは大勢いました。
私もその中の1人だったわけですが、よくよく考えればヒカルの碁はストーリーが秀逸だったのであって決して題材(囲碁)が素晴らしかったわけではありません。
むしろヒカルの碁のおかげで囲碁の世間への認知度は格段に上がっていきました。
今でも語り継がれるヒカルの碁も連載開始からもう20年の時が経っています。
しかしヒカルの碁以降、囲碁を題材とした漫画はほとんど描かれていません。
少女漫画雑誌で連載された「星空のカラス」は囲碁ファンの間で話題になったものの、世間的な認知度は今一つだったでしょう。
漫画家を目指す私の友達曰く「囲碁は動きがないから描きづらい」とのことでした。
まさしく言い得て妙であり、その通りです。
「それを言っちゃあお終いよ」と言いたいところですが、ヒカルの碁が流行った経緯を考えると「地味なこと」も長所になり得ます。
囲碁と違い、将棋は勝ち負けがはっきりしていてわかりやすいことが特徴です。
他のボードゲームと比較しても「王様を取ったら勝ち」という取り決めは最もシンプルではないでしょうか。
それに加えて「大逆転」が起きる可能性を秘めているので、起承転結を漫画として描きやすいでしょう。
将棋はボクシングに似ています。
どちらも「相手を仕留めたら勝ち」であり「一発KO」の可能性があります。
囲碁はどちらかといえばテニスに近いでしょう。
どちらも「長丁場」であり、「ポイント制」で勝ち負けが決まります。
見た目に派手なことは起こりませんし、とにかくひと段落するまでのラリーが長いところもそっくりです。
ヒカルの碁と同時期に連載を開始した「テニスの王子様」をきっかけに、中高生の間でテニスが大流行しました。
私が中学1年生だった当時、皆がこぞってテニス部に入ったのをよく覚えています。
テニスの王子様が流行ったのは「人気少年誌ジャンプで連載していた」ことが大きな要因でしょう。
そしてスポーツ漫画によくある「必殺技」を駆使して、テニスを格闘漫画のような競技として描いていたのも印象的でした。
(最後のほうは「超能力漫画」みたいになっていましたが。)
今後、新しく囲碁を題材にした漫画が描かれることはないのかもしれません。
やはり「地味」であり「動きのない」囲碁を題材にして面白い話を描き上げるのは至難の業と言えるでしょう。
どちらかというと、「天地明察」のような小説として書かれるほうが囲碁の性質に合っている気がします。
「天地明察」は直接的に囲碁を描いた話ではありませんが、江戸時代のプロ棋士「安井算哲」を題材にして後に映画化もされました。
囲碁は「画」として捉えると地味かもしれませんが、「小説」のような表現方法なら「長くて」「わかりづらい」のも欠点とは言えなくなります。
むしろ「結果」が出るまでの長丁場を細やかな表現を用いて描いたとしたら、これまでとは違った魅力が生まれるかもしれません。
百田尚樹著である「幻庵」も「耳赤の一手」で有名な井上因碩の半生を描いた小説です。
井上因碩は歴代の棋士の中でも特に破天荒であり、波乱万丈な生涯を送っています。
囲碁を通じて「人間ドラマ」を感じることができれば、囲碁に対する理解がより一層高まります。
将棋界の後追いをするのではなく、囲碁界独自の路線を築き上げていくことこそ「時代のニーズ」に応える道なのかもしれません。