
「棋道を探求すること」について考察していきます。
棋道とは?
囲碁に限らず、様々な分野において「道」という言葉が使われています。
剣道、柔道、弓道、合気道、茶道、華道、香道、書道等々、挙げていけばキリがありません。
どれも「その道を極める」ことを目指しており、技術の習得はそのための学びでしかありません。
「剣技」「剣術」といったことを学ぶことで、いずれは「剣の道」が見えてくるのです。
勝負事における「道」では、勝ち負けに終始していてはそれ以上の学びを得ることはできません。
例えば「相撲」という競技は勝ち負けを競うスポーツなのでしょうか?
それとも「相撲道」として、力士の在り方を学ぶものなのでしょうか?
ただひたすら勝ちを求め続けるだけの競技であれば、最終的には「相撲ロボット」になってしまいます。
日本が誇る元メジャーリーガーのイチローも畏敬の念を込めて「安打製造機」と呼ばれていました。
勝ち続け、結果を出し続けるのは「凡人」にはとても無理な話です。
そういった意味では「機械」に例えられるのも悪くはないのかもしれません。
しかしただ技術を磨いて、競技を極めていくだけでは何となく面白くないでしょう。
相撲なら「心・技・体」の「心」を追求していくことで、勝ち負けを超えた何かを掴むことができるはずです。
その昔、戦国時代であれば「生死」に関わりますから「剣道」ではなく「剣術」を学んでいたのも納得がいきます。
明治以降、廃刀令により「剣術」を極める意義はなくなってしまいました。
剣を「殺法」に使うのではなく、剣によって人を生かす道こそ「剣道」なのです。
「囲碁」における棋道もただ勝ち負けを追求していくだけのものではありません。
ちなみに「囲碁」とは「石を囲む」と書きます。
元々碁石ではなく「木」を使っていたので、中国では「囲棋」という字になります。
木ではなく石を使うようになったので、「棋」の木へんが「碁」の石の部分に変化しました。
つまり「棋」とは元より「囲碁」を表す字なのです。
だからこそ「囲碁道」ではなく、「棋道」という表現になります。
また将棋においても「棋道」という言葉が使われます。
将棋の駒は「木製」のため、そのまま「将棋」となっています。
囲碁も将棋も競技は違えど、目指すべき「道」は同じなのかもしれません。
ただし競技を追求していかなければ、その道を探求することは難しいでしょう。
なぜなら物事に取り組む姿勢こそ、道を極めるのに大切な要素となるからです。
何かについて真剣に考え、答えを導き出そうとする一連の行為が人の成長を促します。
その一連の行為を繰り返すほど思考が深くなり、また発想も豊かになります。
どの分野にしても「考えること」が必要不可欠であり、「工夫し、試行錯誤」することは進化の本質でもあります。
「棋道」とは「囲碁によって進化を遂げる」ことを目指しているのかもしれませんね。
より良い進化を遂げているのかどうか、盤上の世界だけに留まっていてはわかりません。
盤上で得た見識を身の回りで活かしてこそ、人間として成長した証となります。
姿勢を正す
道を探求するためには競技を追求していくことが必要不可欠になります。
そのために大切なのは競技に取り組む「姿勢」です。
どのような姿勢で競技に向き合っていくのか、ここを疎かにしていては技術の向上もままならないでしょう。
「姿勢」という言葉には態度だけではなく、実際の「格好」も意味合いとして含まれています。
碁を打つときに肘をつきながら碁笥に手を突っ込み、じゃらじゃらと音を立てているのはあまりにも見栄えが悪くていけません。
プロ棋士の中にもリラックスして思考を巡らせるのに集中している方がいます。
しかしはっきり言って「格好悪い」と言わざるを得ません。
そういう格好悪いイメージが付いてしまうと、囲碁の世界に興味を持つ人が少なくなってしまいます。
姿勢を正して凛とするだけで、盤面がわからずとも「格好良い」と感じさせることができます。
タバコを吸いながら、または酒を飲みながら碁を打っていてはとても「棋道」を連想することなどできません。
囲碁は「娯楽」としての一面も持ち合わせていますから、嗜好品と一緒に楽しむこともあります。
とはいえ娯楽としての楽しみばかりでは、碁の内容も「ザル碁」になってしまうでしょう。
せっかく面白い遊びを見つけたのに、遊びを遊びのままにしていてはいずれ飽きてしまいます。
真剣に遊びを楽しむからこそ、より高い次元の面白さを感じることができるのです。
囲碁を生活の生業としているプロ棋士に関しても同じようなことが言えます。
ただ勝ち負けを繰り返しているだけでは、客観的な成長を感じ取ることができません。
故・呉清源や藤沢秀行のように「生き方」にまで言及される棋士でありたいものです。
ただの「囲碁の強い人」では、人間的に何の面白味もなく「囲碁はつまらないもの」だと世間に認識されてしまいます。
実際に「姿勢のよさ」で言えば、将棋の棋士のほうがはるかに立派に見えます。
将棋の棋士は個性的な方が多いですし、将棋の内容がわからずとも個人の「キャラクター」にスポットが浴びることもしばしばです。
棋士の半生が語られることが多いのも将棋であり、世間的には囲碁棋士の名前すらろくに知られていません。
これは単に将棋のほうが人気があるというだけで片付けられる問題ではありません。
一般的に「第一印象が大事」と言われています。
囲碁であれ、将棋であれ「NHKトーナメント」がより多くの人に認知される場になります。
テレビの画面を付けてチャンネルを回していれば、否が応でも目に触れる機会はあるでしょう。
そのとき姿勢が悪ければ、内容に関わらず第一印象が悪くなります。
それは棋士個人の印象ではなく、囲碁という競技そのものの印象です。
囲碁を始めるきっかけになった話を聞くと「テレビで見た姿が格好良かった」からといった声を耳にします。
碁の内容はわからないけど「何かすごい」と感じたらしく、「自分もああなりたい」という憧れを抱いて始められたそうです。
つまり盤上の石運びだけではない棋士の魅力が画面を通して伝わったということでしょう。
この一事を軽く見ているようでは、とても「棋道」を極めることなどできるはずもありません。
プロ棋士やアマチュアに関わらず、「ただ囲碁を打っているだけなのか?」
それとも「物事を探求しようとしているのか?」は見た目で判断することができます。
「碁盤の上に石と碁笥以外のものを置く」とか「碁盤の上で書き物をする」など、物事に取り組む姿勢というのは意外と人の目に留まりやすいものです。
物事に真剣に取り組んでいる人は、たとえ技術的に未熟であっても格好良く映ります。
対局に集中するのは構いませんが、打っている最中でも意識的に姿勢を正しましょう。
囲碁によってあなた自身が成長しているのであれば、周りにもそれが伝わるはずです。
「形」から入るのは、囲碁上達においても欠かせない要素の1つになります。
己の道
盤上を形成している一手一手はすべてあなたと相手の思考から生み出されたものです。
そのため盤上にはあなたの考え方が如実に表れています。
鏡で自分の顔を見てもわからない内面的なことが盤面にはっきりと映し出されています。
対局中は勝つことで頭がいっぱいかもしれませんが、よくよく見返してみると自分の良さも至らなさも感じ取ることができます。
道を極めるには今の己の在り方を知り、どう在るべきかを常に考えなくてはいけません。
私の場合は自分自身の「テキトーさ」や「いいかげんさ」が盤上に映し出されるのをコンプレックスに思っていました。
そのため、一度じっくりと落ち着いた打ち方を目指していた時期がありました。
およそ2年間、理想の碁を目指して研鑽していましたが、途中で断念しました。
その理由は「体調不良」です。
自分自身の肌に合わない打ち方をしていたせいで、碁を打つたびに体調を崩してしまいました。
元通りの「適当で」「良い加減な」碁に戻したら、体調もすっかり良くなりました。
この経験から導き出した結論は「自分の道を追求したほうがよい」ということです。
どんな打ち方をしていても、結局のところ「一長一短」でしかありません。
「亀のような重厚な打ち方」「アリのようにコツコツ積み上げていく打ち方」というのは私には到底打てないものでした。
その代り「兎のような軽やかな打ち方」「キリギリスのような自由な打ち方」が私にはしっくりきます。
当然ながら、どちらにも長所と短所があるのは言うまでもないでしょう。
短所を気にして無理に打ち方や棋風を変えるようなことをしても意味がありません。
なぜなら「自分自身の良さ」まで殺すことになり、また新たな課題を抱えることになるからです。
囲碁は「弱点を補えば良くなる」という単純なものではありません。
大局観に優れた方が部分戦を苦手としている場合を考えてみましょう。
布石でいつも優位に立つのに中盤戦になると崩されてしまうといった悩みを抱えています。
もしあなたがその方にアドバイスをするなら、何と言ってあげますか?
「布石が上手なんだから、あとは詰碁の勉強をすれば強くなるよ」
こんな風に声をかけるのが普通かもしれませんね。
しかし詰碁を勉強して中盤戦に強くなっても、また新たな問題が生じてしまいます。
部分的なことが見えるようになると、全体をバランスよく打ち進めるのが難しくなります。
部分にこだわる方は「死活に強い」長所を持ち合わせており、それ故に大局的な視点が疎かになっているのです。
恐らく詰碁を勉強して部分戦に強くなればなるほど、大局観が失われていきます。
これは逆もまた真なのです。
大局観を養って布石が上手くなっても、今度は部分的なことが見えなくなります。
「見えなくなる」のは「見る必要がなくなる」からに他なりません。
布石で遅れて劣勢に立たされているからこそ、部分戦の突破力で逆転を図ろうという意欲が湧いてきます。
布石で優位に立ってしまえば無理に戦う必要がなくなり、部分における読みが疎かになります。
部分の読みを活かそうと無理に戦うようでは、全局的にバランスのよい石運びができなくなります。
「彼方を立てれば此方が立たぬ」のことわざのように、短所を直しても簡単に強くなることはできません。
とはいえ何の対策も講じなければ、いつまで経っても上達することはできません。
必要なのは常に自分自身の在り方を確認して、バランスよく調整し続けることです。
今の自分がどんな状態か確かめるためにも、毎局ごとに検討してみましょう。
あなた自身の在るべき「道」から外れていないか、目指す方向をしっかりと向いているか?
指導碁などで客観的に見てもらうことも時には大切ですが、セルフチェックを怠ってはいけません。
あなたが自分自身の「道」を歩むためにも、鏡を見るような気持ちで対局を振り返ってみましょう。
己と向き合うことで、成長していく過程を自ら感じ取ることができます。
そうやって歩んできた「道」こそ唯一無二の「棋道」になり得るのです。
盤上の変化は無限です。
その変化の数だけ「道」があるものと心得て、これからの上達に励みましょう!