「囲碁に取り組むための心構えとは何か?」について考察していきます。

囲碁に取り組む心構え

分かりにくさの要因

あなたは毎日、何かしら囲碁に触れていますか?

毎日とは言わずとも週1回、あるいは月1回でも継続して取り組むことが大切です。

日曜日のNHK杯や囲碁将棋ちゃんねるでプロ棋士の対局を観戦するのもよいでしょう。

または詰碁や理論書などの本を読むのも勉強になります。

もちろん対局しているなら、それに越したことはありません。

継続して囲碁に触れていれば、知らず知らずのうちに上達の礎を築いていることでしょう。

ここで1つあなたに質問をします。

「囲碁は難しいですか?」

「それとも簡単ですか?」

一見して二者択一の質問のようですが、イソップ童話の「金の斧銀の斧」的な聞き方をしています。

すなわち「囲碁はよく分からない」というのが本音でしょう。

よく「囲碁は簡単だよ」と上手い人は言いますが、そんなわけありませんよね。

かといって「囲碁は難しいよね」というのも少し違います。

なぜなら「棋理」さえ掴めていれば、囲碁はそう難しいものではないからです。

この「棋理」というのが根幹であり、習得するのが非常に厄介な代物なのです。

「基本さえ分かっていれば、応用はいくらでも利く」と各分野の先人たちは言います。

しかし基本から積み上げていくのは、とても膨大な時間がかかります。

大樹は初めから根本が太かったわけではなく、長い年月を経て地中に根を張り巡らせながら天へと伸びていったのでしょう。

つまり基本だけ勉強しても伸びませんし、応用ばかりやっていても伸び悩みます。

這った根の分だけしっかりと伸び切ってから、また飛躍するための根を張り巡らせます。

上達とはこのプロセスの繰り返しに過ぎません。

とはいえ根を張っている最中は「伸び悩み」に感じてしまい、途中で挫折する方が少なくありません。

それに「どうやって基本を学んでいくのか?」といった疑問や不安もあるでしょう。

学ぶべき道筋がはっきりしていれば、「簡単」とか「難しい」なんて些細な問題です。

当たり前のことですが、やればやるだけ「簡単」になり、やらなければ「難しい」ままになります。

詰碁など最もわかりやすい例ではないでしょうか?

問題ごとに「答え」が決まっていますから、あとは「やるか」「やらないか」だけです。

詰碁や(部分的な)手筋、定石は「やること」が決まっているため、囲碁の中でも学びやすい分野でしょう。

ところが「囲碁全般」のことを考えるなら、「わかりやすさ」とは無縁もいいところです。

例えば「布石の基本」を考えてみましょう。

初級者の方に「布石の基本」を伝えるとき、あなたはどのように教えますか?

「布石は三線・四線を軸に組み立てるのが基本になります」

「一線・二線、または五線以上では地を上手く囲うことができないからです」

「初めは四隅を占めて、次に辺、そして中央へと展開していきましょう!」

このように説明できるあなたは「中級者以上」の実力は確実にあります。

しかしこの説明だけでは、実戦の布石を打ちこなすことはできません。

なぜなら「石がぶつかる」たびに戦いが起こり、部分的に「中盤戦」となるからです。

ツケて石がぶつからずとも「カカリ」や「ハサミ」から「一間トビ」の競り合いになることもあります。

布石を打ちながら「接触戦」「石の競り合い」による「ひと段落」を考えなくてはいけません。

当然ながらある程度「定石」を知らなくては、上手く布石を打ち進めることはできないでしょう。

これらをバランスよく身につけるための根を張るのは、並大抵のことではありません。

盤上では囲碁における各分野の知識がいつ、いかなるとき求められるか分かりません。

国語、数学、英語、理科、社会の問題をごちゃまぜにしたものを出題されたら、あなたはどんな気分ですか?

各分野はそれぞれ「簡単」「難しい」の二者択一かもしれませんが、ひっくるめたら「分かりにくい」のではないでしょうか。

いわば、絡まった毛糸のようなものです。

1つ1つひも解いてスッキリするまで、どのくらいの労力がかかるのでしょうか?

まさしくこれこそ「囲碁はよく分からない」という要因になっています。

なぜ囲碁は難しいのか?

※興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。

真の理解を得るために

人は得体の知れないものを受け入れようとはしません。

囲碁は世間的に「よく分からないもの」として捉えられています。

そのため囲碁に携わる多くの方が「囲碁の魅力をわかりやすく伝えよう」という試みに励んでいます。

しかしその難易度たるや相当のものです。

楽器なら「音」を鳴らせば、どんなマイナーな楽器でもわかりやすく魅力を伝えられます。

スポーツなどの競技も「動き」をひと目見れば、頑張っている姿がすぐに伝わるでしょう。

茶道、書道などの文化も「所作」から厳かな雰囲気が見て取れます。

それらに比べて囲碁は致命的に「体の動き」が足りません。

盤上における石運びを「頭の働き」によって行っているため、傍目からは何をやっているのか理解不能です。

そして将棋や麻雀のように駒や牌に「個性」があるわけでもなく、それぞれの石の働きを自分自身で決めなくてはいけません。

しかも「数学」や「科学」のように何か世の中の役に立っているわけでもありません。

すべて盤上で「自己完結」しているため、周りから影響されることもなく、また周りに影響を及ぼすこともないでしょう。

なぜ囲碁を打つ人たちはこのような「理解されない」ゲームをやっているのでしょうか?

理由は単純です。

やってみると面白いからに他なりません。

パズルを解いている人に「何が面白いの?」とは聞かないでしょう。

山を登る人に「何で山に登るの?」とは聞かないと思います。

何となく「解き明かすのが楽しい」とか「頂上を目指すのが楽しい」という感覚は誰しも持ち合わせているからです。

囲碁を楽しんでいる人なら「とりあえず1回やってみて」と言うかもしれません。

しかしながら、それは悪手です。

そもそも「よく分からないもの」に本腰を入れて取り組もうという方はいません。

また本気で取り組む気がなければ、やはり「よく分からないもの」で終わってしまいます。

囲碁は「スルメ」のようなもので、噛めば噛むほど味が出てきます。

スマホで遊べる「お菓子」のようなゲームとは違い、お酒がよく合う大人の味わいです。

ここら辺をはき違えると、囲碁の魅力を伝えるのが難しくなります。

「もっと囲碁をわかりやすく、簡単なものにしよう!」

「9路盤や13路盤を使えば、気軽に楽しめるかもしれない!」

こう考えるのは結構なことですが、安直な方法と言わざるを得ません。

苦いものを甘くすればよいというわけではないでしょう。

囲碁が「よく分からないもの」というのは、内外における周知の事実です。

未だかつて囲碁を「わかりやすく」表現しきれた人はいません。

囲碁はよく「宇宙」に例えられますが、宇宙こそ「よく分からないもの」であることを忘れていませんか?

各国が宇宙開発に莫大な費用をかけているように、アマチュアも囲碁上達に膨大な時間をかけています。

それは一体何のためでしょうか?

こういうことを簡単に答えてはいけません。

安易な答えは「底の浅さ」が露呈してしまいます。

もしかしたら、あなたは囲碁を「わかっているつもり」なのかもしれません。

しかし答えを持ち合わせている必要はまったくありません。

知らないこと、分からないことに価値を見い出すのが人間の探求心だからです。

先ほど「何で山に登るの?」とは聞かないと言いましたが、その質問に対する答えはもう明かされています。

そうです、有名な「そこに山があるから」という言葉ですね。

この一言に尽きます。

これは何に対しても言えることです。

パズルを解くのは「そこにパーツがあるから」であり、囲碁を打つのは「そこに盤と石があるから」でしょう。

「名探偵コナン」の主人公が事件を解決するのも「そこに謎があるから」に他なりません。

無理に自分や他人を納得させる理由をこじつけても仕方ありません。

また無理やりハードルを下げたとしても、そのものの本質から遠ざかっていくだけでしょう。

「(野菜が)苦いから甘くしよう」

「(筋トレが)辛いから楽にしよう」

「(囲碁が)難しいから簡単にしよう」

これらの試みは「初心者(子ども)」には大いに結構です。

ただし、いずれ「苦しくて辛く、難しい」状況に追い込まれることは覚悟の上となります。

大人になる、上達するためには乗り越えなくてはならない壁がいくつも存在します。

安易な優しさだけではなく、それらをしっかり伝えるのも先人の役目ではないでしょうか?

そして他人におんぶに抱っこしてもらわず、自分の目で確かめ、その足で歩むことによって「真の理解」を得られます。

考えること

囲碁は分からないからこそ面白いのです。

「ここはどう打つのが正解ですか?」なんて聞くのは愚の骨頂でしかありません。

万年級位者の方は親鳥の背をついていくひな鳥のようなものです。

有段者ともなれば、我が道を行く覚悟が必要になります。

高段者からは道なき道を開拓していく、いわば冒険者のようなものです。

「どのルートが正解ですか?」なんて聞く冒険者は誰1人としていません。

どんな無駄足を踏んでも、研究に実践を重ねてより良い道を探していきます。

ここまでくれば、分かりにくい盤上が「大草原」のように自由な広がりを見せます。

「分かりにくさ」とは「自由」の裏返しでもあります。

「わかりやすさ」は時として「不自由」であり、「そうしなければならない」という制約を抱えます。

「右上隅」から打ち始めるのは、囲碁の「常識」であり「慣習」に基づくものです。

今はネット碁の普及とAIの影響により、他の隅から打ち始めてもよい傾向になりつつあります。

ひと昔前は右上隅から打たないだけで「お前は碁を知らんのか」と言われたものです。

確かに打ち始めを「右上隅」に打つほうが棋譜を並べやすく、打ち碁を覚えやすいでしょう。

並べ返しのとき、一手目から「どの隅だっけ?」ということがなくなります。

しかし同時に要らない制約を抱えることでもあります。

さらに「1に空き隅、2にカカリ、3にシマリ」の格言を加えるとしましょう。

一手目に「初手天元」はおろか「五―五」「大高目」を打つことさえ敬遠されます。

「空き隅」とはわかりやすく「星」や「小目」を占めるものであり、そこにカカリを打つのがお決まりのパターンとなっています。

大抵、それ以外のことをやると嫌がられます。

なぜなら「分かりにくい」からです。

定石も簡明な「基本定石」が愛用されています。

当然ながら「星」や「小目」ばかりです。

定石から外れる、または常用外の定石を使うのは憮然とされます。

これもまた「分かりにくい」という理由のためです。

結局のところ「わかりやすさ」を求めることにより、囲碁のゲーム性が損なわれています。

囲碁のゲーム性とは「自由」に他なりません。

自由だからこそ、何をしたら良いのか分からないものです。

そして、まさにそこが囲碁の面白さの根幹でもあります。

そもそも自由をわかりやすくできるはずもありません。

ルールや定石、テクニックにがんじがらめなのは「不自由」な証拠です。

囲碁は最低限のルールしか用意されておらず、テクニックも時や場所によりけりです。

ピンチの時に頼れるのは今まで培ってきた「囲碁観(感)」だけでしょう。

もちろん何の指針もなければ、大海原で漂流し続けることは目に見えています。

そのために「定石」や場面ごとの「テクニック」が存在しているのです。

大切なのは学んだことを「自分のものにできるかどうか」に尽きます。

「右上隅」から打つというのは、相手から見て「左下隅」に位置します。

つまり「右利きの人が一番打ちにくい場所」から打ち始めるというわけです。

基本さえ分かれば、応用はいくらでも利きます。

左利きの人が相手なら「左上隅」から打ち始めるのが適切な配慮になります。

当然ながら「ネット碁」では、どこから打とうが関係ありません。

基本も知らずに「初手は右上隅以外はダメ」と言うのはあまりにも滑稽でしょう。

物事にはすべて「成り立ち」があり、基本と名の付くものには「理由」があります。

それを学ばずして「形」だけ真似しても、本当の意味で身に付いたことにはなりません。

基本を学ぶ上で欠かせないのは「疑問」です。

「なぜそうなるのか?」「どうしてそこに打つのか?」といった疑問が次々と浮かんでくるのは良い兆候です。

勘違いしてはいけないのが「なぜそうなるのか、答えを教えてください」と聞いてはいけません。

あくまでも「自分の頭で考える」ことを前提として、ヒントを乞うくらいならよいでしょう。

答えを聞いた途端に思考停止して、それ以上考えなくなります。

「正解」とは「果実」であり、それぞれの枝葉に無数に実ります。

枝葉ごとの果実を1つ1つもぎ取っていては、いつまで経っても「根幹」に辿り着けません。

いつの日か、無数の果実を実らせるために「根」を張る努力をしましょう。

囲碁の基本は「考えること」です。

安易なわかりやすさ、答えに飛びつかず、確かな思考を確立しましょう。

本に書いてあること、人のアドバイスはあくまでも「ヒント」に過ぎません。

そこからどう答えを導き出すのか、あなたの囲碁に取り組む姿勢と心構え次第なのです。