「布石から学ぶ自由な考え方」について考察していきます。

布石から学ぶ自由な考え方

自由を知る

あなたは囲碁を自由な発想で打てていますか?

盤上での無限の広がりをさながら「小宇宙」と表現することがあります。

実際には観測できる全宇宙の原子の数よりも、囲碁の盤上における変化の総数のほうが多いのです。

故に「大宇宙」と表現しても何ら差し支えありません。

囲碁の世界を探求するための心構えとは?

※興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。

囲碁の広さ(可能性)は初手からある地点に達するまで無数に広がっていきます。

まるで宇宙創世(ビックバン)から現在に至るまで、宇宙空間が無限に膨張し続けるのと同じようにです。

しかしある地点を境に今度は収束に向かっていきます。

あたかも膨張し続ける宇宙がいずれ収束に向かっていくのと同じように終局へと続きます。

そして最後の「小ヨセ」まで局面が進むと、「正解」と呼べる着手を探し出すことができます。

1,2目のヨセの段階になれば、多少手順が違っていても誰でも正解を導き出すことができるでしょう。

誰が打っても変わりないヨセに比べて、布石~中盤はまさしく無限の可能性を秘めています。

ところが可能性に満ち溢れている布石を「開拓」しようとする人は決して多くありません。

以前には張栩九段が「ブラックホール」と名付けた布石を公式戦で披露したことがあります。

かつて昭和の名手である「呉清源」と「木谷実」は若かりし頃に「新布石」なるものの研究に没頭しました。

山籠もりをして当時の大天才2人による「研究」によって、囲碁の可能性は大いに花開きました。

しかし時代のトップを走る稀代の天才たちの「真似」をしようとしても、独自に道を開拓しようとする棋士は稀にしかいません。

その稀な棋士たちによって新たな時代は作られています。

勝ち負けに生活が懸かっているプロ棋士が下手に冒険できないことは承知しています。

それでは、アマチュアの方々は「自分流」の世界を築き上げているのでしょうか?

残念ながら独自に囲碁の棋理を開拓しようとするアマチュアの方はほとんどいません。

なぜなら「変わった打ち方」を認めない、排他的な考え方をする方が多くいらっしゃるからです。

囲碁とは「棋道」であり、「守破離」のような修行における段階を経ることが大事だと考えられています。

つまり「基本」を学び、「見聞」を広め、それから「独自」の道を歩んでいくことを良しとしています。

いわば「級位者」から「有段者」を経て「プロ棋士」の領域に至るようなものです。

このような考え方を私は決して否定するつもりはありません。

ただ「楽しくないな」と感じてしまいます。

そもそも囲碁は「考える」ことこそ極意のゲームであり、考えの元を得るために「基本」を学ぶのです。

「学ぶ」は「真似ぶ」を語源としていますが、いつまでも上手い人の真似ばかりしていては本当に「学ぶ」ことはできません。

自分自身で「仮説」を立てて「実行」して「検証」することで、本当の学びを得ることができるのです。

囲碁は「文化」の世界であり、「芸事」の世界であると認知されているように感じます。

囲碁は「勝負」の世界であり、「芸術」の世界でもあると本当に理解している方は少ないでしょう。

「文化」や「芸事」とは継承であり、伝統を守ることです。

「勝負」や「芸術」には新しい発想や個人の価値観が求められます。

囲碁はどちらにも属しており、「温故知新」を体現する素晴らしいゲームなのです。

こんな素晴らしいゲームを「つまらない価値観」で縛り付けるのは滑稽を通り越して呆れるしかありません。

自由を認める

「初手は右上隅から打つものだ」というのは1つの「慣習(ならわし)」なので百歩譲って許しましょう。

問題は「隅から打ち始めるもの」とか「定石通りではない」という主張です。

空き隅を「大高目」「五-五」あるいは中央の「天元」に打とうものなら、すごく嫌な顔をされます。

たとえ「星」や「小目」などの隅から打ち始めても、今度は「定石通りではない」という非難をする方がいます。

ネット碁で相手の顔が見えない場合でも「嫌な顔」をされているのがわかります。

なぜなら「初手天元」を打とうものなら、即座に投了して退席されるからです。

なぜこのようなバカげたことが起きてしまうのでしょうか?

答えは簡単です。

「勉強不足」「経験不足」を人(対戦相手)のせいにする方が多いからです。

いったん落ち着いて、普通に考えてみましょう。

「1に空き隅、2にカカリ、3にシマリ」という格言があります。

格言とは「8割くらいの確率で良いことが起きるよ」という昔ながらの経験則に基づいています。

囲碁の形を「言葉」として残したと言ってもよいでしょう。

その有り難い格言曰く「最初は空き隅を打ったほうが良いよ」とのことです。

もし相手が格言から外れたことをしてきたら

あなたは怒りますか?

それとも喜びますか?

どちらの態度を取るのが正しいのでしょうか?

答えは決まっています。

相手が先人たちのお言葉を無視して真ん中に打つのなら、有り難く隅をもらうまでのことです。

このとき不快に感じる「合理性」など皆目見当も付きません。

では、相手が定石から外れたことをしてきたら

あなたは怒りますか?

それとも喜びますか?

どちらの態度を取るのが正しいのでしょうか?

答えは決まっています。

相手が最新の研究を無視して定石外れを打つのなら、有り難く咎めさせてもらうまでのことです。

このとき不快に感じる「合理性」など皆目見当も付きません。

しかしこんな簡単な理論もわからずに怒ってしまう人の「気持ち」や「理由」を推し測ることはできます。

結局のところ「わからない」から怖くて、嫌な感じがするのです。

「初手を天元になんて打たれたことないからわかりません」

こう素直に言えれば、伸びしろを感じることもできます。

自分の勉強不足を棚に上げて相手を非難するなどもってのほかです。

「定石から外れたらどう打って良いのかわかりません」

こう素直に言えれば、教えがいもあるというものです。

そもそも「定石外れ」ということ自体が、あなたの勘違いかもしれません。

定石は日進月歩で進化し続けていますから、まずはあなたの「定石辞典」が過去のものであることを疑いましょう。

はっきり言って、多少勉強してきたことを鼻にかけて知らないことを批判するなど恥ずかしくて仕方ありません。

囲碁の多様性、人それぞれの価値観を認められないのであれば、今後あなたが上達することは難しいでしょう。

常に「学び」を求めている人は着手に対する嗅覚が違います。

漫画「ヒカルの碁」における一場面を紹介します。

名人である塔矢行洋が主人公のヒカルと相対して対戦することになりました。

当時のヒカルは「囲碁の神様」と呼ぶべき佐為の指示によって囲碁を打っていました。

何手か進んだとき、ヒカルが初めて「打ちたい」と潜在的に意識して自分自身の意思によって石を盤に打ちました。

その石の置かれた場所が何と「二線」だったのです。

ヒカルは佐為に心を乗っ取られたように錯覚してしまい、すぐにその場を離れてしまいます。

盤上に置かれた石を見つめながら塔矢名人は「最後の一手、実に興味深い」と感じていました。

「ヒカルの碁」に関しては人間ドラマが中心の漫画なので、盤上の細かいところに深い意味はありません。

しかしながら囲碁をより深く知る者ほど、未知なる着手に「面白い」「興味深い」という反応を見せることも確かなのです。

囲碁を深く知らない、知ろうともしない人に限って「そんな手はないよ」とか「そんなの碁じゃないよ」と平気で口にします。

「知らぬが仏」ではありませんが、囲碁を浅いところで楽しんでいる方を非難するつもりは毛頭ありません。

とはいえ、そういう方々に限って囲碁の奥深さを知ろうとする人の邪魔をするような心無い発言をすることがあります。

「言わぬが花」ではありませんが、浅い知識をひけらかすより何も言わないほうがよいでしょう。

囲碁の世界をより深く探求したい方は「失敗を恐れず」にいろいろな打ち方を試してみることをお勧めします。

結局のところ囲碁の勝敗は「中終盤」で決することがほとんどです。

いくら布石で成功しようとも中終盤のミスでひっくり返ってしまう碁は星の数ほどあります。

そのように考えてみれば、布石の研究を実戦で試すことに何のためらいがありますか?

相手の機嫌をうかがっていては、いつまで経っても型にはまった布石しか打つことはできません。

自分流の確立

上達するには「自分流」をいち早く確立することが必要不可欠なのです。

なぜなら囲碁は無限に広がる大宇宙ですから、「暗記」などという分野に収まりきるはずもありません。

囲碁で必要な「暗記」の分野とは「手筋」と「死活」です。

あとは「計算」ですが、これはひたすら「目算」するしかありません。

つまり囲碁における「有限」とは、中終盤に必要な知識のことなのです。

「無限」の変化をもたらす布石には「型」のような決まりきったものは必要ありません。

ただし石が接触して戦いになり、ひと段落することで「部分的に終局」します。

終局とは収束を意味しており、それは可能性が消えるということです。

布石においても「部分的に終局」することは十分にありますから、決して布石が完全に自由であると言っているわけでもありません。

定石とは部分的な「手筋」と「死活」の集合体です。

定石を「覚える」のではなく、定石を「学ぶ」ことは大いに意味のあることだと理解しておきましょう。

それにしても囲碁界はプロ棋士やアマチュアを問わず「古風」な打ち方を好む人が大勢います。

今でこそAIの躍進によって幅広い打ち方を意識する人が増えてきましたが、ひと昔前までは模倣が正義だと言わんばかりの風潮でした。

別に模倣することが悪いとは思っていません。

やはり「真似ぶ」ことは「学ぶ」ために必要不可欠なことでしょう。

さらに一歩踏み込んで「自分なりの解釈」をすることができれば、より一層素晴らしい学びになります。

人の真似をしている時点では「模倣」です。

勝負の世界に著作権はありませんから、どんどん真似すればよいのです。

そして「自分なりの解釈」によって打つ手に意味を持たせてみましょう。

そうすれば、もはや同じ手を打っていても「模倣」ではなく「オリジナル」になります。

「オリジナル」を得て初めて「自分流」に一歩近づくのです。

「先生がこう言っていたから」

「本にこう書いてあったから」

これではいつまで経っても、囲碁の深淵に近づくことさえできません。

棋力が低いからといって、何も卑下することはないのです。

昔とある棋士の大先生が「5級も五段も変わらん」と言っていました。

おそらくネガティブな意味合いで「アマチュアなど大したことない」ということでしょう。

私もまったく同じ意見です。

ただ、私の場合はポジティブな意味合いで「そんなに大した差はないよ」という立ち位置です。

プロ棋士の先生の言わんとすることも理解できます。

しかし今となっては完全に「ブーメラン発言」になってしまいましたね。

アマチュア五段も名人も「AlphaGo」(AI)に比べたら変わりません。

人の思考領域では「5級=五段=名人」です。

それほどまでにAIとは水をあけられてしまいました。

それでは、人間はこのまま永遠に囲碁の奥深さを探求できないのでしょうか?

答えはノーです。

なぜならAIの得意な分野は「中終盤」であり、そこは「有限」の分野だからです。

最新のAIをいくら高性能のPCに繋げたところで、囲碁を完全に解析するのは現時点において不可能です。

そんなに囲碁というゲームは甘いものではありません。

「ようやく人間に勝ったか」と言えるのが、実情なのです。

ポジティブな意味合いで「人間もAIも変わりません」と言っておきましょう。

結局のところ「有限」である「中終盤」において「手筋」と「死活」を習熟した順に棋力が決まっているだけですから。

初心者の方も級位者の方も棋力は関係ありません。

「無限」に広がる布石~中盤にかけて「自分流」を確立してもらって大いに結構です。

そうすることで「考える癖」も付きますから、上達するうえでも必ずプラスになります。

上達の足枷になるのは「決めつけること」に他なりません。

「これはおかしい」と感じる根拠は何ですか?

あなたがその場で考えて出した答えが「おかしい」というものなら一向に構いません。

しかしうろ覚えの不確かな知識によって「おかしい」と言うのであれば、一回凝り固まった頭を柔らかくしなくてはいけませんね。

まずは相手を受け入れることです。

相手を受け入れるというのは、囲碁の深淵を感じるということです。

その上であなた自身の考えを盤上に描き出します。

これまでに学んだ「知識」や「経験」をあなた自身の考えに落とし込むことができているのなら、それは立派な「オリジナル」の考え方でしょう。

とかく級位者の方は自分の考えに自信が無さすぎですし、有段者の方は自分が学んできたことに自信を持ちすぎです。

「私なんてまだまだ」と思っているあなたは素晴らしい独自の考え方の持ち主なのです。

級位者の方はもっと自分自身に自信を持ちましょう。

「囲碁とはこういうものだ」と思い込んでいるあなたの考えは、はたして本当にあなた自身のオリジナルですか?

有段者の方はもっと今まで培ってきた知識に疑問を持ちましょう。

囲碁で大切にしたいことは創造性豊かな発想です。

確かに「正解」と呼べる着手や場面にも遭遇します。

ただそれ以上に「不確かな」状況や形勢のほうがはるかに多いことも事実です。

囲碁は自分自身の考え方を盤上に描くものです。

そして相手の考え方を汲み取り、2人でより多くの可能性を模索していくものなのです。

囲碁が「手談」と言われる所以ですね。

囲碁という無限に広がる器を信じて、相手の着手を受け入れながら自分自身の辿るべき道を模索してみましょう。

あなたの碁が個性的で、創造性豊かなものになることを心から願っています。