
「結論を急がない囲碁の考え方」について考察していきます。
わからないことを知る
あなたは一局における良し悪しをどのような基準で判断していますか?
多くの方は「勝ち負け」によって一局の出来、不出来を評価していることでしょう。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」のことわざのように勝つことで一手一手積み上げてきた着手が肯定されます。
しかし当然ながら勝ち負けは必ず付くものであり、それによってすべての着手が肯定されるわけではありません。
プロ棋士ならまだしも、普通のアマチュアであれば形勢を二転三転させながら何とか勝ちに辿り着くのではないでしょうか?
また土俵際まで追い詰められてからの「うっちゃり」なんて勝ち方もあります。
どれだけ不利な状況に追い込まれていても、勝負はゲタを履くまでわかりません。
結局のところ結果としての勝ち負けだけでは、途中の良し悪しを判断するには足りないのです。
では、どうやって途中の経過を判断すればよいのでしょうか?
高段者、プロ棋士ともに「経験則」で判断しているケースがほとんどでしょう。
答えのわかる「有限の分野」であれば、理論的に良し悪しを導き出すことができます。
例えば、詰碁や小ヨセまたはフリカワリによる目算などです。
級位者、有段者が「無限」と感じているところでも、実は「有限」として捉えることができているのです。
とはいえこれだけ盤面が広いわけですから、すべてを網羅することはとても叶いません。
したがってこれまで培ってきた「経験則」でしか、盤上における「無限」の領域を語ることができません。
よく「布石理論」なるものを目にしますが、終局から一番遠い布石の良し悪しを語るのは「感想」くらいの意味合いしか持たないでしょう。
子どもの頃に「将来の夢」を語るのと、ほとんど変わりありません。
ただし一局を1つの人生だとするならば、数千局~1万局以上対局してきた高段者やプロ棋士の布石理論には一定の真理があります。
最初はやはりコミュニティを作りやすい「3線、4線」から打ち始めるのがセオリーというのも頷けます。
人生に例えるなら「山奥」や「島」からスタートするのは「大金(地)」を稼ぐにはいささか不利というものでしょう。
個人の力量次第といえばそれまでですが、まず公務員や会社員から始めるのが攻略しやすいお勧めルートではないでしょうか。
ある程度、資金の目処が付いてきたら元手を活かして模様を広げます。
または新天地を開拓しに行くのもよいでしょう。
このようにいろいろな打ち方を試していけば、おのずと「打ちやすい」と感じる形や展開が分かってきます。
私もこれまで「5-5」「大高目」「初手天元」「中央の一間ジマリ」「ブラックホール」など名だたる布石に挑戦してきました。
さらに自分流の「新布石」を打ち出して、「トライ&エラー」を繰り返しながら良し悪しを検証しました。
それによって「わからない」ということが、はっきり「わかる」ようになりました。
この「わからない」ということをちゃんと認識するためには、膨大な勉強量が必要となります。
浅い知識では「知ったかぶり」はできても、結局のところ何もわかっていません。
海中深く潜って、初めて「海の奥深さ」を知ることができるのです。
知識を深める体験
インターネットが発達した現代において「答え」を知ることが誰にでも簡単にできるようになりました。
今や「わかりづらい」ものは次々と淘汰される時代になっています。
美味しい料理もネットで検索すれば作り方が載っていますし、何か困ったことがあればネットを引けばすぐに解決できてしまいます。
しかし残念ながら「答えを知る」のは、決して「身に付く」ことではありません。
学校の教科書を見れば、テスト範囲の答えが載っているはずです。
ただそれを頭に落とし込むには繰り返し読み込むか、書き込むかしなければならないはずです。
ネットも教科書も便利なツールであって、あなたの知識そのものではないのです。
「定石覚えて2子弱くなり」の格言に似たような想いを感じます。
定石とは盤上においての道しるべになりますが、着手における答えをすべて物語っているわけではありません。
定石はすべてを網羅すると「万」では足りないくらいの変化に富んでいます。
その定石ですら囲碁の答えの「ほんのごく一部」にしか過ぎないのです。
あなたがいくら定石を覚えようとしても「何百」くらいがせいぜいのところでしょう。
級位者の方なら「何十」も覚えれば、称賛に値するくらい立派な成果と言えます。
※興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。
しかしそのごく一部の情報にばかり頼っていては、本来もっと大切であるはずの「あなたの経験」を活かすことができません。
わからないことを知ろうとするのは当然のことですが、「知ったつもり」になってはいけません。
実際に「答えを知る」のと「身に付く」ことでは、天地の差が生じるほど棋力を分けます。
もしかしたら「5級のあなた」と「六段の私」の知識にはほとんど差がないのかもしれません。
「初段のあなた」であれば、私よりも豊富な知識を蓄えているかもしれません。
とはいえ囲碁における「見識」では、私のほうが上回っていると断言してもよいでしょう。
「見識」とは【物事を深く見通し、本質をとらえる、すぐれた判断力】のことを指します。
つまり表面上の知識がいくら豊富であっても、見識がなければ今以上の棋力の向上は望めません。
見識を深めるためには「経験を積む」他にやりようがないと言っても差し支えないでしょう。
ネットで拾った「お手軽レシピ」を見て簡単に料理が作れても、オリジナルを「自作」するには至りません。
「織田信長」「豊臣秀吉」という名を暗記して、戦国時代をわかったような気になる人はいません。
当たり前のことのようですが、どうも「浅い見識」を臆面もなく披露する方が増えたなと感じています。
時代の流れとして、それは致し方のないことなのかもしれません。
今や1つの分野を掘り下げるような「かったるい」ことを好む人は少なくなりました。
今求められているのは「要約」された「結論」だけです。
美味しいお店も口コミで広がり、それがネットにアップされます。
「評価が高いからここにしよう」といってお店を決めるのは、そう悪いことではありません。
大切なのは他者の評価をきっかけとして、自分の舌で良し悪しを判断することです。
「要するに」「こういうことだ」という要約と結論に対して、あなた自身が身をもって体験しながら感じる必要があります。
その「体験」と「感動」を繰り返しているうちに、おのずと物事の「見識」が身に付いていくのです。
中身を掘り下げる
世の中に溢れかえる情報には必ず「人間」が関わっています。
その人の培ってきた経験に基づいて、数多の情報を発信しています。
それはつまり傍から見えない、人生で得た「知見」が多分に含まれているのです。
「知見」とは【実際に見て知ること、また見聞して得た知識】のことを指します。
中身の詰まった「シュークリーム」をイメージしてもらえるとわかりやすいでしょう。
シュークリームをかじらない限り、中に詰め込まれたクリームの美味しさを味わうことはできません。
外側の「生地」を見るだけでは、シュークリームの全貌を明らかにすることなどできないのです。
豊臣秀吉の「一夜城」はまさに人間の心理を突いた巧妙な作戦です。
外面を良くして、中身を上手くごまかすのは世渡り上手な秀吉ならではのやり方です。
実際に全力で確かめに来られたらひとたまりもなかったはずですが、そうはならないと確信していたのでしょう。
「人は第一印象で決まる」といったように、他人の外面ばかり見てその人の内面に触れようとしません。
「一事が万事」であり、結局のところ何事においても掘り下げられない人はそれまでということです。
それは「人」かもしれませんし、「物事」かもしれませんし、「情報」かもしれません。
「目の前にいるこの人は一体どんな人だろうか?」
「これはどういったものだろうか、どういうことだろうか?」
「この情報は本当に正しいのだろうか?」
まずは「知りたい」という興味から始まり、それが次第に「学びたい」という欲求になります。
もちろん人生の時間は「有限」ですから、何でもかんでも学び尽すことはできません。
ネット社会において「可能な限り、知りたい」という人間の知的好奇心を満たすために情報が溢れかえっているのかもしれません。
しかしそれでは広くヨコへ広がるばかりで、深くタテに掘り下げることはできません。
1つの情報にしても「掘り下げる」ことで、果てしない深さを味わうことができます。
それが「物事」や「人」に発展していけば、学びの種が尽きることはありません。
囲碁であれば「二連星の打ち方」という情報の1つを取っても底が見えないほど掘り下げることが可能です。
二連星の打ち方を学んでいるうちに「二連星の棋譜」に興味が湧いてくることでしょう。
そのうち「二連星を打っている棋士」の打ち碁を調べたくなるのにそう時間はかかりません。
本来、知識というのは掘り下げてから初めてヨコへの広がりを見せていくものなのです。
表面を横滑りしているだけでは、人や物事の本質には決して辿り着くことができません。
シュークリームの生地を破って、中身をすべて食らい尽すほどの「好奇心」が求められます。
「囲碁」という分野をあなたなりに掘り下げるためには「実戦」を積み重ねるしかありません。
ありとあらゆる棋書を読み漁って「囲碁とはすなわちこういうものだ」と結論付けるのは、あなたが導き出した1つの答えになります。
とはいえその答えが正しいのかどうか、やはり実戦で「検証する」必要があります。
学ぶための「手間」を惜しんでいては、いつまで経っても浅い見識でしか物事を語ることはできません。
1つの物事を掘り下げることができれば、他の分野でも応用が利くはずです。
大切なのは「結論」ではなく、答えを導き出す「プロセス」なのです。
与えられた知識をどう自分のものにするのか、よく考えてみましょう。
考えることこそ人である証であり、また「人間冥利に尽きる」と言えます。