
「第39期女流本因坊戦予選1回戦稲葉かりん初段vs田村千明三段」の棋譜解説をしていきます。
布石解説
黒1,3の小目に対して、白2,4の小目は現代では珍しい布石といってよいでしょう。
仮に黒が両ジマリ、白も両ジマリの展開となったとき「先着の利」と「コミ6目半」どちらが活きるのかといえば、大場へ先行できる権利のほうが活かしやすいからです。
マネ碁のような展開は中盤以降まで続くと、コミのほうが活かしやすくなります。
黒5のカカリに白6のカカリ返しは気合いの進行です。
白6のときコスミかケイマに受けてしまうのはまずいでしょう。
次に黒は右上隅にシマリを打ち、右下隅と左上隅を見合いにします。
白がシマリなら黒もシマリ、白が右下隅へカカリならハサミから攻め立てて先手を取ります。
そして黒は悠々と左上隅へカカリを打ちます。
さて、ここで問題です。
黒のカカリとシマリ、白のカカリとシマリの数はどうなっているでしょうか?
答えは簡単ですね。
黒が左下隅のシマリを邪魔して、なおかつ右上隅のシマリを打っている分だけカカリとシマリの数がどちらも1つ多くなっています。
ゆえに実戦の黒5のカカリに対して、うっかり受けるのは白の「利かされ」というわけです。
実戦の進行は黒5、白6のカカリのあと黒15、白32とお互いにシマリを打っています。
四隅は小目に限らず星のときも同じ状況にしておくと、序盤早々から差を付けられずに済みます。
黒は上辺のカカリとシマリを見合いにしているので、黒7と受ける余裕があります。
白8のヒラキは将来的に右上隅のシマリの背中をけん制する好点です。
黒5のカカリに手を抜いているので、黒9のカケから左下隅を連打するのは必然でしょう。
もし右上隅のシマリではなく左上隅のカカリに向かいたいなら、黒は両ガカリを選択します。
黒C-7(3-十三)、白9、黒D-10(4-十)、白D-3(4-十七)、黒E-4(5-十六)、白D-2(4-十八)、黒C-15(3-五)
以上の手順によって、左辺に展開しながら左上隅のカカリへ向かうことができます。
【碁盤の「≡」設定から「Displaycoordinates」をチェックすることで「座標」が出てきます】
【碁盤の「≡」設定から「Edit mode」をチェックすることで「検討」することができます】
実戦は黒9~13まで利かしてから、黒15のシマリへと先行しています。
白14の一間トビを省く定石もありますが、結局は黒のマゲが利くので左上隅のカカリを打たれます。
白16の打ち込みは見るからに甘そうな一手です。
黒は何もせず、実戦のように黒23,25と右下隅を治まっておきます。
次に白は下辺の二間ビラキが必須ですから、黒は余裕を持って左上隅のカカリに先行できます。
「1に空き隅、2にカカリ、3にシマリ」の格言は信憑性の高いものと言えるでしょう。
AIが「単三々入り」を示したことにより、19路盤における隅の価値が再認識されています。
黒17のハサミも悪くありませんが、白18,20とモタレて右下隅の黒石が若干薄くなります。
黒21~25まで治まるのは手堅く、妥当な進行でしょう。
しかし白26の切りに対して、黒27と上からアテたのは大甘の緩着と言わざるを得ません。
黒28と下からアテるのが好手であり、下辺をワタってしまったほうが眼形も豊富です。
白が2本ノビて黒一子をゲタに抱えるのは、出切り残りでお荷物を抱えるだけの悪手でしょう。
黒27,29と白二子を取りに行くのは白28,30まで、黒の出切りを防がれた上に白が先手になります。
左下隅の厚みとも近く重複しており、白はまんまと下辺を利かして左上隅のシマリに戻りました。
黒はなぜ実戦のような凝り形の進行を選んだのでしょうか?
恐らくここでも「単三々入り」の価値観が読みに影響を及ぼしています。
AIが単三々入りによって生み出した価値観は「厚みの評価」をガラリと変えてしまいました。
今までは「隅の実利vs外の厚み」だったのが、「隅の厚みvs外の厚み」に変化したのです。
囲碁において「眼がある」というのは「強力な厚み」に他なりません。
隅への利き筋がなければ、外の厚みを挟んで攻め立てようとする「壁攻め」が有力でしょう。
布石の段階から「実利の大小」を比較するのではなく、あくまでも「石の強弱」によって局面を評価する流れになっています。
私の目には左下隅の壁は「厚み」として十分に評価できます。
ところが稲葉初段の目には「薄み」として認識されているようです。
そうでなくては黒17~31までの一連の手順の説明がつきません。
しかしそれでは黒9とカケた一手の面目が立たないでしょう。
黒9では先に下辺のヒラキを優先するべきだったことになります。
正直、下辺の折衝は黒の打ち方を「大甘」と見るべきです。
黒17ではN-3(13-十七)のコスミツケを利かしてから、厳しく攻め立てるのが有力な進行でした。
はっきり言って、黒23のコスミツケを打つのは中央からの利き筋をなくすため得策ではありません。
下辺の折衝によって、稲葉かりん初段の「棋風」が何となく見えてきました。
良く言えば「手堅い」打ち方であり、悪く言えば「甘い」打ち方でもあります。
どちらの評価となるか、それは勝敗に委ねられます。
プロ棋士である以上、結果を示すことでしか己の棋風を肯定できないのは致し方ないでしょう。
白32のシマリまで、黒がチャンスを逃した分だけ形勢は僅かばかり白有利と見ておきます。
中盤解説
黒33のカケは今一つでしょう。
黒のコスミツケに白はノビているわけですから、今さら中央から利かそうとするのは虫の良い話です。
白34のサガリで受けることにより、隅への守りを強要しています。
黒35の利かしは本来なら右辺のシマリから詰めて打ちたいところです。
下辺~右下隅にかけての折衝は黒がチグハグしており、どれも賛同できるものではありません。
下辺の白石に狙いを絞るなら、初めから右下隅の黒石を治まらずに中央へ進出させるべきだったでしょう。
すなわち黒23のコスミツケでは中央のツケノビから、白のノビコミに三々をオサエておくのがよかったというわけです。
あるいは右下隅、左下隅ともに治まった黒は中央の分断ではなく、単に黒37と大場へ向かうのが自然というものです。
白38はお付き合いが過ぎます。
白38~44まで、ここに一手費やすのは布石の大場感覚としてよくありません。
しかも白38~42の三手が元の白石に近いのも気になります。
白L-4(11-十六)が利き筋なので、白L-8(11-十二)まで足を伸ばすことができます。
下辺をガッチリ整形した挙句、白44に一手戻すようではいけません。
結局のところ黒37に対して白44と応え、黒45と連打されたことになっています。
これでは黒33,35の蛇足が意味を持つことになり、むしろ「白の無駄手を誘った好手」に化けてしまいました。
これで形勢は再び五分に戻ります。
手割りとしては黒15のシマリに白32とシマリ、黒37に対して白16から下辺に一手かけたのと同じです。
つまり右上隅のシマリと左上隅のシマリ、上辺と下辺の大場を交換して黒番ですから、ここからまた仕切り直しになります。
黒45~69、白70~80、黒81~125まで、何をしているのか分かりますか?
そうです、単純に「広いところから順番に打っている」に過ぎません。
白44の時点で左辺の白石は六間幅であり、上辺の黒石は五間幅となっています。
右辺は五間幅であるものの、生きた石同士が向かい合っている「マグサ場」と言えるでしょう。
黒45の打ち込みから中盤の競り合いを演じているようで、実は「大ヨセ」の意味合いも多分に含まれています。
白46と黒石のスソ(カド)に打ち、ひとまず根拠を奪います。
黒47,49の利かしは良いとして、黒53~57の動き出しはいただけません。
そこは元々「四間幅」だったところであり、そこの黒石を強化する必要性を感じません。
上辺の黒模様(五間幅)を意識しているのかもしれませんが、左辺の黒石が薄くなっては結局あとから荒らされてしまいます。
黒51~59までのリズムはプロっぽいと言えば聞こえは良いのですが、碁の理論に反していることは間違いないでしょう。
分かりやすく、手割りに照らし合わせて考えてみます。
黒45のとき、黒47~57(黒51を除く)を先に決めたとしましょう。
そこから左辺に手を付けるなら、もっと浅く打ち込むべきではないでしょうか?
黒45、白46の交換は利かしとしても、黒51は一路高いほうが捌きやすいはずです。
実戦は黒51と先に低く打った以上、左辺にしっかり根を下ろす打ち方を選ぶべきでした。
黒59のトビから軽く捌こうとしますが、白60~66まで中央に頭を出されては上辺の黒石が相対的に薄くなっています。
白70のツケを利かして、白72~80まで上辺をしっかり治まります。
白70のツケにハサミで反発するのは、左上隅がスソ空きなので得策ではありません。
黒81,83を利かし、とりあえずマグサ場の右辺は放置して黒85と左下隅のスベリに向かいました。
ここから局面は大ヨセに入ります。
形勢はやや白良しといったところでしょう。
終盤解説
黒85のスベリには白94と応じています。
囲碁は基本的にどう打っても「後手」になります。
一手一手をくまなく追うのは大変ですから、どの「場所」に打っているのかを把握するほうが分かりやすいでしょう。
もし黒85ではなく94に先行していれば、白は左下隅のヨセを打つまでのことです。
大局的には布石にしても大ヨセにしても「交互に場所を占める」だけなので、大きく差が付くことはありません。
最も差が付きやすいのは中盤戦の「部分的な折衝」に他なりません。
大局的に差が付かないということは、必然的に部分戦において差が開くということです。
この碁は戦いらしい戦いが起こらないまま、大ヨセに突入しています。
黒97のノゾキに対する応手がこの碁の勝敗を決定づけました。
黒98~102まで分断したのは結果的に「悪手」だったと見てよいでしょう。
なぜなら黒111のオシから右辺と中央のフリカワリとなったからです。
このフリカワリはどう考えても、白がおかしいでしょう。
右辺より中央が大事なら、白94のときに何かしら中央に打つべきです。
それを黒97のノゾキに色気を出して分断したものの、黒127まで上手く捨てられては「場所取り」において矛盾した動きとなっています。
囲碁は空間を構築するゲームですから、石取りにばかり気を取られてはいけません。
白130まで依然として細かい勝負ですが、ここまで来たら再逆転には及ばないでしょう。
この碁は253手まで、黒番稲葉かりん初段の1目半勝ちとなりました。
総評
一局を通して見た感想としては「物足りない」の一言に尽きるでしょう。
工夫らしい工夫が見られず、どちらも至って凡庸な打ち方をしているように見えます。
しかし囲碁において「工夫」とは、大きな落とし穴でもあります。
有段者ならある程度は「綺麗な打ち方」を実践できるものです。
とはいえ、どこかで必ずゴチャゴチャしてしまいます。
その原因となるのが対局者それぞれの「エゴ」に他なりません。
盤上でお互いの権利を主張し合い、譲らないからこそ戦いが起きます。
囲碁の棋風とは性格に基づいており、その中に工夫やエゴが含まれています。
あまりに工夫を凝らし過ぎると、囲碁の理論の根幹となる「中庸」から大きく逸脱してしまうでしょう。
囲碁の理念に基づくなら、工夫やエゴはバランス感覚を欠くだけの雑念でしかありません。
その意味では、稲葉かりん初段と田村千明三段は共に「中道」を歩むような打ち方であったのは確かです。
しかし私はあえて異論を唱えます。
囲碁のプロとは果たして「棋士」なのか、それとも「勝負師」なのでしょうか?
歴代の棋士の中でも、最も「棋道」と「勝負」に優れていたのは藤沢秀行であると感じています。
秀行先生の美しい打ち方と勝負強さは誰にでもマネできるものではありません。
必ず、どちらかに傾いてしまうものです。
それを踏まえた上で、プロとは「勝負師」であるべきだと私は考えています。
一棋士として棋道を探求するのは、勝負の世界に身を置く者にはなかなか難しいでしょう。
勝ち負けとは「最善」の中にはあらず、ましてや「最強」の中にもありません。
囲碁という完全無欠のゲームの中に人間という不確定要素が含まれているわけですから、単純にゲームを攻略しようとしても上手くいきません。
そこら辺の機微を感じ取りながら柔軟に変化し、なおかつエゴを通したほうが勝つように出来ています。
この碁ではお互いに「囲碁というゲーム」をしていただけに過ぎないでしょう。
順番に場所を取り合って、ヨセ合うだけの至ってシンプルな内容でした。
そこに勝負の息づかいはあまり感じられなかったものの、逆に息づかいをさせないように打っていたのかと後から納得しました。
どうしてもエゴが入ったり、下手に工夫すると形勢を損ねてしまいがちになります。
しかし、私はそれはそれでいいじゃないかと思います。
どうしたって「人間」の要素が入ることは防ぎようがありません。
囲碁というゲーム自体が広いのではなく、人間という不確定要素が勝負の深みを増し、着手の可能性を広げているのです。
プロ棋士の先生方には勝負(人間)の中において、棋道(囲碁)を探求してほしいものです。
石の効率の前に相手がいる。
その相手が何を考えているのか?
どうすれば、相手の息づかいを乱すことができるのか?
そんなことを考えながら盤上の戦略を組み立てるのはすごく楽しいでしょう。
稲葉かりん初段も田村千明三段も、今後はもっとエゴや工夫を凝らした対局を魅せてくれることに期待しています。