「囲碁の勝負における勝ちとは何か?」について考察していきます。

囲碁における勝ち

評価の基準

あなたは勝負に勝ちたいですか?

それとも囲碁を楽しみたいですか?

勝つことが楽しい、または楽しみながら勝ちたいなど答えは一様ではないかもしれません。

しかし「勝ちたい」気持ちは誰しもが抱いている正直な想いだと感じています。

今まで「勝ち負けはどうでもいい」なんて本気で言っている人に会ったことはありません。

勝ち負けとは「人の存在意義」に関わるほど、重要な指標になっています。

また勝ち負けのない分野では、「出来」「不出来」によってその人の評価が決まります。

わかりやすく例えるなら「ウサギとカメ」の童話がピッタリです。

山頂を目指してウサギとカメが競争しました。

結果はご存知のように「カメ」に軍配が上がりました。

足の速いウサギは途中で居眠りをしてしまい、足の遅いカメがその間にコツコツと歩みを進めていたというわけです。

もし足の速いウサギが手加減、あるいは油断せずにあっという間にゴールしていたらどうでしょうか?

のろまなカメが人々から称賛を受けることは決してありません。

トップアスリートのような運動神経抜群のウサギが絶賛を博すことは疑いの余地もないでしょう。

「勝ち負け」を度返しにして山頂に登りきることを良しとするなら、2人で仲良くゴールできるかもしれません。

ただしそれは「低い山頂」に限ったことで、富士山のような「高い山頂」では必ずしも登頂できるわけではありません。

条件が変われば、得手不得手も変わってきます。

走るのが得意なウサギは登山道を「トレイルランニング」しています。

一方、コツコツ歩くのが得意なカメは通常の登山をしています。

つまり登頂までの距離が延びれば、延びるほど息切れしないカメのほうが有利になります。

もしかしたら今度はカメだけ登頂できて、ウサギは途中でリタイアするかもしれません。

すると今度はカメが称賛を受けることになり、ウサギに励ましの言葉はあってもそれ以上の賛辞はありません。

2人が仲良くゴールできる程度のハードルであれば、誰にも評価してもらえないでしょう。

結局のところ「勝ち負けが付く」あるいは「出来、不出来」によって物事の評価をしているのです。

これは周りの人間だけではなく、あなた自身も同様です。

日常的に「歩く」ことを褒め称えられることはまずありません。

ところが「毎日1時間ウォーキングしています」と言ったら称賛に値します。

なぜなら「毎日1時間」何かを継続するというのは多くの人が「出来ていない」ことだからです。

この「誰かと比べてできている」というのは「人間の存在意義」に関わる重要な指標になります。

あなたは何かしら「目標」を掲げるとき、どのような基準で「成功」を決めていますか?

大抵の人は「簡単にできないこと」が成功であり、それを「目標」として掲げることでしょう。

囲碁なら誰しも「初段」を目標とします。

当面の目標として「10級」あるいは「15級」を掲げても、それが最終目標だと言う方はいません。

それもそのはずです。

「簡単にできるであろう」ことは誰からも評価されないからです。

それは周りの人間のみならず、自分自身の評価もまた同様でしょう。

「勝ち負け」「出来、不出来」といった「基準」があるからこそ、相対的に己を評価することができるのです。

勝ちのハードル

勝ち負けを繰り返しているうちに今度はもっと「ハードル」を上げようとします。

すなわち「勝ち方」にこだわるようになります。

囲碁は「1目でも勝てば良い」と言われますが、有段者になると「勝てるだけ勝ちたい」という欲求が強くなってきます。

数目勝ちでは満足できず、数十目勝ちを目指そうと果敢に相手の石を取りに行きます。

いわゆる「取りたい病」というやつですが、そういうときはカウンターを喰らいやすく逆転負けを喫しやすいのです。

それでも有段者の「取りたい病」が治ることはありません。

大きく勝つにはそれ相応のリスクが伴うことを肌で実感してこそ、高段者への道筋が開かれます。

「大きく勝ちたい」という気持ちは不安の裏返しでもあります。

微差の勝負において優勢を守りきる自信があるのは高段者以上の実力者でしょう。

多くの方はいくら優勢でも「不安な気持ち」がどこかにあるのではないでしょうか?

特に置き碁で上手に毎回やられていると優勢に対して疑心暗鬼になってしまいます。

「何とかこの優勢を守りきらなければ」と考えるのは級位者の方に多い発想です。

「この優勢をさらに勝勢まで持っていこう」とするのは有段者の方に多い発想です。

高段者の方はもっと冷静に局面を見て判断しています。

「守りきるか」それとも「攻めきるか」勝負ごとに局面を判断しながら打っています。

目算できているかどうか、また「店じまい」できるかどうかでも打ち方が変わってきます。

級位者の多くは「目算」はおろか「店じまい」もろくにできません。

「店じまい」とは「局面を収束させること」です。

要するに局面を簡明にさせて、手数をかけずに終局を目指す打ち方です。

30目勝っていれば無理に戦わず、相手にも地を譲りながら最後に10目残すようなやり方です。

この「譲り加減」が読みを伴っていないと難しく、下手をすると逆転されてしまいます。

また「目算」をある程度できていないと話になりません。

有段者の方の多くはその気になれば「店じまい」するくらいの読みは備わっているでしょう。

しかしろくに「目算できていない」ことがほとんどです。

六段の私が三段の方に「6子」で勝つことは造作もありません。

県代表クラスの方が三段の方に「9子」で勝つのもまた容易いことでしょう。

その原因は「目算していない」ことにあります。

じっくり手を止めて目算しながら打たれたら「3子」でも苦戦を強いられます。

三段の実力であれば、「店じまい(勝ちきる)」ことはそう難しくありません。

置き石を上手く利用して中盤を優位に進めれば、あとは「リスク」を最小限に抑えながら局面を収束させていくだけです。

言葉にすると簡単そうですが、実際の盤面を見ながら「リスク」を判断するのは並大抵ではありません。

どこに落とし穴が潜んでいるのかもわかりませんから、いくら考えても深みに嵌まるだけです。

結局のところ「確実な勝ち」など存在し得ないということです。

私が三段だった頃に「君はプロ相手に9子で勝つことができるか?」と訊かれました。

「まあ、9子もあればどうにでもなるんじゃないですか。」

「じゃあ、100万円賭けてプロ棋士と9子で勝負することができるか?」

こんなやり取りをしていましたが、今となってはこの質問の真意もわかります。

「勝ち」を決して甘く見てはいけません。

勝つことは当たり前ではないのです。

対局を重ねて勝ち負けを繰り返していると、どうしても一局一局が「雑」になってしまいます。

ちょうど私が三段の頃は勝負に対して「いいかげん」になっていましたから、先ほどの質問は戒めの意味も含まれていたのでしょう。

勝てば勝つほど「もっと勝ちたい」「内容よく勝ちたい」「圧倒的に勝ちたい」といった欲が生まれます。

しかし「勝つこと」自体が相手を上回ることであり、素晴らしいことなのです。

「ハードル」を上げたいのであれば、対局前にハンデを調整しましょう。

一局一局「勝ち」に集中することで、おのずと結果が伴ってくるはずです。

勝ちにこだわる

「勝利」というのは、必ず「最終的な結果」となります。

途中経過で勝ちを得ることは絶対にできません。

「優勢」「大優勢」「勝勢」「ほぼ勝ち」といった形勢判断をすることはありますが、明確な「勝ち」は終局するまでわかりません。

プロ棋士の有名な「大逆転劇」としてNHK杯の「中野泰宏vs石田芳夫」の対戦があります。

終局直前、黒番中野九段の勝利が確実視されていたにもかかわらず、自らアタリに突っ込んで勝ち碁を落としてしまいました。

解説の小林光一九段曰く、本来なら「黒6目半勝ち」の内容だったようです。

当時、私もリアルタイムで見ていましたが、何が起きたのかすぐに理解することはできませんでした。

プロ棋士がアタリを見損じるなど、想像だにしなかったのです。

このようなケースは極めて稀ですが、アマチュアともなると「日常茶飯事の事件」と言っても過言ではありません。

実力が拮抗した者同士では、勝利とはもはや「偶然の産物」に過ぎないのかもしれません。

もちろん適切なハンデによって実力が拮抗した状態で「緩んで」しまうと、あっという間に敗勢に追い込まれます。

全力を尽くしてなお、確実に得られないものこそ「勝利」と言えるのです。

勝つために盤上におけるルールの範囲内で工夫を凝らすことは素晴らしい行いです。

囲碁には「美しい」「綺麗な」といった「美的感覚」が存在します。

逆に「ヘボ碁」「ザル碁」といったように「下手な打ち方」というのもあります。

たびたび人様の碁を「碁(五)でもなければ、ろく(六)でもない」と言って揶揄する方がいます。

また負けた言い訳に「汚い打ち方」「卑怯な打ち方」なんて非難する方もいます。

善意でアドバイスするのは構いませんが、他人の碁を批判するのは問題外でしょう。

囲碁の最も良いところは「ルールが少ない」ことです。

ルールが多ければ、多いほど「がんじがらめ」になって個人の考えを表現することができません。

「金太郎飴」もしくは「判を押した」みたいにどれもこれも似たような打ち方になってしまいます。

ルールの範囲内であれば、どのように打っても自由であることは「大前提」と言ってよいでしょう。

囲碁の美的感覚とは「勝ちやすい形」のことであり、決して打ち方を強制させるものではありません。

「勝ちやすさ」という点における囲碁の常識が変われば、当然ながら「美的感覚」の概念も変わります。

AIの台頭により囲碁の常識がことごとく覆っていますから、今さら「美的感覚」を語るのも時代遅れなのかもしれません。

あくまでも「勝ち」を目指して、打ち方に工夫を凝らすことが大切です。

勝負に「必勝法」など存在しませんが、少しでも勝つ確率を上げることに力を尽くします。

絶対にやってはいけないのが「ルール違反」をすることです。

囲碁の代表的なルール違反は「カンニング」です。

実際にやっている人を見たことも聞いたこともありませんが、決してやらないことです。

その理由は至ってシンプルです。

ルール違反をして勝っても、己を含めた誰からも称賛されないからです。

今どきスマホのアプリを使えば、簡単に「プロ級」の実力を発揮することができます。

それを使って「勝ちました」という結果をあなたは受け入れることができますか?

己の利益のために「不正を働く」のは人の性なのかもしれません。

とはいえ「囲碁」という「暇なゲーム」を攻略するのに、わざわざ不正を働くのは意味不明です。

高校野球で「サイン盗み」が問題になっていますが、多かれ少なかれ「お金が動く」世界ではルール違反をいとわずに「勝ちにこだわる」ことがあります。

高校野球は進学、プロ野球への道を開くために皆が必死です。

監督も球児も「競技を度返し」してでも勝ちたいと思う気持ちはわかります。

しかし「遊び」でルール違反をしてまで勝つのは意味がわかりません。

もはや時間の無駄でしかなく、面白さの欠片も感じられません。

「勝つかどうか最後までわからない」ことに一生懸命取り組むからこそ、勝負の醍醐味を味わえるのです。

勝ちたい気持ちはよくわかります。

ただ、簡単に勝てる勝負をしても満足することはできません。

簡単に達成できないからこそ、勝ったときの充実感がより一層際立つのです。

「勝ち負けにこだわる」というのは、「自分の限界に挑戦する」ことに他なりません。

「出来、不出来にこだわる」のもまた同じことなのです。

「自分の立ち位置」は周りとの比較でしか判断することができません。

その上で周りに勝つことを目標とせず、己の限界を超えることを目指します。

結果として「勝ち」につながったり、「良い出来」になったりするかもしれません。

そうすることで、己を含めた周りからの称賛を受けることができます。

本当の意味で「勝ちにこだわる」ことによって、あなたはさらなる高みへと登ることができるでしょう。