
「囲碁とは何か?」について考察していきます。
空間の創造
あなたは囲碁をわかりやすく説明することができますか?
「囲碁」という文字は見た目にも難しく、また盤上の経過はそれ以上にわかりづらいやり取りをしています。
そもそも囲碁は「囲棋」と呼んでいました。
「棋」とは「ご」と読み、「其」は四角い盤のことを指しています。
それから「木」が「石」に変化したことにより、石と四角い盤の両方を示すようになりました。
「名は体を表す」の言葉通り、囲碁は「囲う」「石」「盤(フィールド)」の3つがテーマとなっています。
「囲う(囲む)」が「碁」つまり石と盤に掛かっているので、「石を囲む」「盤(フィールド)を囲う」と解釈できます。
囲碁の争いは「石を囲む(囲ませない)」「地を囲う(囲わせない)」のいずれかに該当します。
それ以外は「棋理」に反する行為であり、囲碁のゲーム性に反する動きとなります。
つまり囲碁とは「相手の石と自分のフィールドを囲うゲーム」と表現できます。
よく「石を連絡しましょう」とのアドバイスがあります。
それは石を連絡することにより「石を囲ませない」「地を囲う」の両方を果たせるからです。
局面によっては「石を囲む」「石を囲ませない」「地を囲う」「地を囲わせない」の一石四鳥にもなり得ます。
代表的なのは「裂かれ形」でしょう。
連絡しつつ分断することで、地を囲いながら敵陣を崩壊させます。
逆に一石零鳥の連絡もあります。
相手の陣地の中で連絡しても包囲されている状況は変わらず、何も果たせません。
何ができるのかは局面次第ですが、石と地(フィールド)に関わることをやるのが棋理に合っています。
ちなみに「石」と「フィールド」は段階を経て、最終的には「地」となります。
石は「連絡」「厚み」から地になり、フィールドは「勢力」「模様」から地になります。
※詳しくはこちらをご覧ください。
「地」とは石とフィールドの最終段階であり、そこを目指して盤上のやり取りがあるのです。
すなわち囲碁とは「石と空間(フィールド)の育成ゲーム」と捉えることができます。
囲碁をひと言で表すなら「地を囲うゲーム」ですが、地の概念を上手く説明できないと伝わらないでしょう。
例えば、あなたの部屋に置いてあるのが「家具(石)」であり、部屋の広さが「空間(フィールド)」に相当します。
部屋の機能を最大限活かすには、どちらも欠かせないものとなります。
もし強大な厚み(シャンデリア)に対して、四畳半のスペースしか作れないのは論外です。
打つ機会は交互なわけですから、厚みに見合った空間を囲わなければなりません。
四畳半のスペースであれば、テーブルと布団くらいで十分でしょう。
そういう効率を考えながら、次の一手を選択していくのが「囲碁」のゲーム性なのです。
つまり囲碁とは「効率よく石で空間を構築するゲーム」と説明できます。
いわば建築家、匠の技を必要としています。
無論、相手の邪魔をしながら家を建てるという争いの部分も持ち合わせています。
要は「破壊と創造」です。
作り上げたものを無にされる恐れがありますが、破壊は同時に創造となります。
奪われた分はすべて相手のものとなるので、結局のところお互いの創造は増え続けて終局に至ります。
すなわち「空間の創造」こそ最大のテーマであり、そのためには効率のよい配石が必要不可欠なのです。
距離感を保つ
囲碁では「形勢判断」が最も重要になります。
常に最善を求めるのは正しい姿勢ではありません。
有利なときは手堅く打ち、不利なときは無理をするといった緩急が大切です。
億万長者が必死に働く必要はどこにもないでしょう。
欲張って無理をすれば、手痛い反撃を喰らうかもしれません。
「金持ち喧嘩せず」とはまさにリスクを負う愚かさを表しています。
逆に貧乏人は汗水たらして働く、もしくはリスクを承知で戦う必要があります。
持たざる者が既得権益を打ち破るにはそれ相応の覚悟と力が必須でしょう。
この「金持ち」と「貧乏人」の差は相対的なものに他なりません。
いわゆる価値観とは「相対的な評価」をしているに過ぎないのです。
隣の人が食うや食わずの生活をしているとき、食うに困らないあなたはどう思うのか?
もしくは豪華絢爛な生活を目の当たりにして、平凡な生活を営むあなたはどう感じるのか?
日本に住んでいれば、世界を相対的に見たときにそこそこ満足できる生活を送れているかもしれませんね。
しかし囲碁は自分と相手しかいません。
「2位じゃダメですか?」なんて言葉は愚問でしょう。
2位=負けとなりますから。
また断トツ1位である必要もないでしょう。
相手よりほんの少しだけ上回ればよいのですから。
どんな競技においても、大差勝ちにそれほど意味があるとは思えません。
1勝は1勝の価値しかありません。
大切なのは1局の中でどれくらい勝つ確率を高められるかでしょう。
相手の動きによって、打つ手や石の方向を変えるのは至極当然と言えます。
なぜなら「変化への適応力」こそ、生物に一番求められる能力だからです。
いちいち右往左往しないという意味では「一貫性を保つ」のも有効になります。
とはいえ思い通りに行かないのが勝負の常であることは周知の事実でしょう。
上手く変化できれば名采配と称され、下手を打てばヘボ采配と揶揄されます。
囲碁は一手一手を慎重に判断して打たなければいけません。
局面の変化を捉えるには、相手の動向を常に注視する必要があります。
「好きなように打てばよい」なんて甘い世界ではありません。
自由であるためには「余裕」が欠かせません。
形勢が不利であるにもかかわらず、どうして自由に打つことができますか?
「あなたの思うように打てば、それでいいですよ」と言うのはほどんど上手に限られます。
まさか下手の方が「まあまあ、怖い顔せず気楽に打ちましょう」なんてアドバイスはしないでしょう。
それこそ「余裕(形勢有利)」の発言に違いありません。
以上のことから、囲碁は「形勢判断(相対的な判断)」を求められ続けるゲームなのです。
常に相手との比較の中で勝負を進めていくのは、意外とストレスが溜まります。
ある程度の基準が定まっていれば、考えをまとめやすく見るべき方向も分かりやすいでしょう。
ところが状況の変化が著しいと対応が追い付かなくなり、局面の変化に嫌気が差します。
めまぐるしく移り変わる局面の中でしのぎを削るのは、まるでカーチェイスのようでもあります。
事故を起こさないよう気を付けながら、最大限スピードを追求する姿勢はプロ棋士の碁にそっくりです。
勿論、余裕があるのなら安全第一で打ち回すのが理想的でしょう。
そうやって相手との距離感を上手く保つのもまた、効率のよい石運びと言えます。
集団における成果
囲碁は将棋とは違い「タレント」が存在しません。
将棋にはそれぞれの駒に役割があり、駒の優劣もはっきりしています。
チームスポーツ、会社のような集団や組織では必ず「エース」と呼ぶべき人材がいるはずです。
ここが囲碁の面白いところであり、つまらないところでもあります。
スポーツ観戦ならエースの活躍を中心に見ていけばよいでしょうし、会社でも有能な人は少なからず噂になるでしょう。
囲碁は黒と白の石、ただそれだけしかありません。
1つ1つの石に個性はなく、いわば働きアリのようなものです。
働きアリが童話のキリギリスのように「個」を持つようになれば、集団として成立しなくなります。
この「無個性」の石たちをどう扱うのか、それが囲碁の醍醐味になっています。
囲碁には「ダメ(呼吸点)」と呼ばれる石の活路があり、それをすべて塞がれると取られてしまいます。
取られないように石を連絡するわけですが、実は石をつなげることで本来の活路が狭まります。
「そんなわけない」
「石を連絡すれば、強くなるのは当たり前だ」
との声が聞こえてきそうですね。
しかし実際に活路は狭くなります。
1つの石はダメ(呼吸点)が4つですから、別々に2つの石を打てばダメの数は8つでしょう。
これを連絡してしまうと2つの石それぞれのダメ(呼吸点)を1つずつ潰してしまうのです。
ポン抜きするには4手必要ですが、亀の甲で2子を取るのは6手しか必要ありません。
つまり石を連絡すればするほど、自軍同士でダメを潰し合って理論上は取られやすくなります。
終盤に石を取られてしまうのは、敵のみならず味方の石もダメヅマリの原因となっているためなのです。
とはいえ1つの石よりも2つの石のほうが活路が多いのもまた事実でしょう。
2つの石は最大8つ、少なくとも6つのダメを有しているため1つの石より強くなります。
結局は石をつなげて地にするわけですから、連絡は空間の構築に欠かせない要素です。
この「連絡の仕方」によって、無個性な石たちが「個性のある集団」に生まれ変わります。
囲碁における個性とは集団になることで初めて得られるのです。
今どき「集団」よりも「個人」のほうがもてはやされるに決まっています。
甲子園でもエースが注目され、ベンチャー企業の社長がメディアに取り上げられます。
それに比べて、囲碁は主に「2つ以上の石の働き」に名前が付けられています。
ハネ、ノビ、コスミ、ケイマ、アタリ、ポン抜き、シチョウ等々
単独の石に名前を付けることはまずありません。
場所によっては「星」と呼んだりしますが、あくまでも「場所」ですから石の名前というわけではないでしょう。
すなわち囲碁は集団において力を発揮するものであり、個々のタレント力には一切頼りません。
まあ相手との関係性からツケ、ワリコミなどの単独行動もありますが、そこから有能な集団になれるかどうかがキーポイントになります。
ダンゴ石のような無能集団にもなれば、小ゲイマジマリのような効率のよい働きをすることもあります。
どのような集団を目指し、どんな働きをするのか。
それら一連の流れを「読み」と称しているのです。
よく「3手読みを心がけましょう」と言われています。
これは黒・白・黒、もしくは白・黒・白の3手のことですが、すなわち「自軍の石を2つ以上考えましょう」という意味に他なりません。
2つ以上の石が関わることにより、初めて「個性」や「役割」が決まるのです。
ここで「囲碁とは何か?」についてまとめてみましょう。
・効率よく石で空間を構築する
・形勢判断(相対的な判断)に基づいて、相手との適切な距離感を保つ
・個のタレント力に頼らず、集団において成果を出す
これらのことから、囲碁は「大局的な視点を養う」のにうってつけのゲームと言えます。
もし誰かに「囲碁って何?」と聞かれたら、こう答えましょう。
ベストアンサー「大局観を養うゲームだよ」
これこそ囲碁の本質であり、これからの社会に求められる能力でもあります。
個人主義が進むあまり、物事の全体像をとらえる視点がなくなってきています。
囲碁は今後の社会のあり方に「一石を投じる」役割を担うのかもしれません。
囲碁のルールを知りたがっている人が、対局観を養うゲームだ、と言われて、興味を持ち続けられるでしょうか?私はそうは思いません。
囲碁が普及しない理由は、ルールが理解できないから・知らないから、に尽きると思います。
囲碁好きで、囲碁のルールを知らない人に、分かりやすく説明しようと努力している人はいるでしょうか?
将棋は、初心者であっても、将棋のルールを知らない人にルールを教えることができます。そして初心者同士でも対局を楽しめます。私だって、ルールを知らない人に、15分あればルールを手際よく教える自信があります。
囲碁好きは、ルールを伝える努力をしていますか?
世界戦で日本人が勝てないこととか、関係ないと思います。ルールを知っているかどうかが、本質的な問題です。
あと、囲碁の本質とは無関係ですが、日本の囲碁界は朝鮮色が強すぎます。幽玄の間ですら朝鮮企業がスポンサーであると知り、唖然としました。
囲碁の普及に関して朝鮮問題に言及しないのは、現実から目をそらしているとしか思えません。
まるで芸能界・パチンコ業界みたいな日本囲碁界。こんな状況で、ルールの問題と相俟って、子供に囲碁をさせたいと思う日本人が増えるでしょうか?
コメントいただきありがとうございます。
囲碁のルールは簡単です。
交互に打つ、石を囲ったら取る、陣地の多いほうが勝ち。
これを6,7路盤で盤上に示すだけです。
何も難しいことはなく、ものの5分で済みます。
ルールを知っているかどうかは問題ではありません。
単純にやる動機がないだけです。
そのきっかけはニュースなど目の止まるところに取り上げられることでしょう。
ちなみに囲碁好きな人は囲碁を通じての人付き合いを好んでいるので、普及に関してはさほど興味がないでしょうね。
朝鮮云々の話は気にしすぎかと思います。
あちらにご返信ありがとうございます。
実は大学で囲碁の授業の取りまとめ役をやっています(教えるのはインストラクターや若手のプロ)
数年前に囲碁の授業を導入したとき、記者会見しました。囲碁をやることで学生に何を期待するか?という質問に「大局観を養ってほしい」と答えましたが、こちらの記事を拝読して間違ってなかったと(^^)
正直半年(正味4ヶ月)の授業では、なかなか大局観というレベルまでは難しいようです。学生たちのレポートや感想によると、囲碁はルールが簡単すぎて自由すぎることに困惑するようです。
いえいえ、大学の授業へ導入するのはよい試みかと思います。
大局観を活かせるのは部分的なワカレ(ひと段落)ができるようになってからなので、短い期間では難しいです。
むしろ経験者が不自由に感じるスペース、すなわち13路盤くらいが適当でしょうね。
一部分を全体に活かしながら収束へと向かうイメージを掴みやすいでしょう。